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お酒について#66


時は残酷なものである。時は残酷、CKB横山剣氏の受け売りである。確かに残酷である。ヤコペッティ世界残酷物語である。

さて、ヤコ公は置いておいてヤクルト1000を飲んで夜、布団に潜りこむも、午前4時頃に中途覚醒する日が連続した。朝から仕事が無い日ならその覚醒任せにyoutubeなど眺めるのも現代人の不毛な仕草と言える。

その動画サイトでオタクという言葉を造作した岡田斗司夫のチャンネル、全部は見てないが一度観ると何回も出てくるし、内容も、その尺の長さも程度良く、創作映像というものに一考を試される面白い放送である。

WOWOWで「タッチ」三部作を観た。録画を失敗して1作目は10分しか観られなかった。タッチはアニメである、アニメ以外の映像はアニメ以外である。

つまり岡田斗司夫のチャンネルで散々っぱら伝えらるのは、アニメというものは、製作者の意図が100%反映されたものである。という事である。

当たり前と言えば当たり前ですが、実写映像は製作者側が理想形に限りなく近づけて撮るが、時と場合、環境や役者や製作者のコンディションが理想に対して良くも悪くも働く不確定要素が必ずある。

そしてOKという、ある種妥協を含む判断を出すのが監督でありましょう。といってもNGシーンが良かったりOKシーンがダメだったりして、その辺りは密室で行われる編集の領域でも編集者のコンディションや時代が影響する。

アニメはカットシーンはあっても完成系は100%製作者側の意図が反映されたものである、と信じる。制作進行で規格外に監督の手を離れて極端に膨らんだり縮まったりしない、予算も時間も決まった厳密な制作世界である。

さて「タッチ」である。兎に角隙がない、そして制作側の演出100%である。蛇口を回す時、何回回ったら水が出るか、部屋の間取り、バイクのデザイン、セリフの間、すべてOKの判断の元に作られている。

私的経験で、あぁ、ここは逆光が酷いが、ライトルームで直る範囲だなとい思いつつ撮る写真と、計算100%で作られるアニメは同じ「映像」と言われうジャンルに入りながら写真とアニメは対極的でもあると言える。

日本には私小説ばかりで大きい世界観を提示する小説が少ないと言われる、しかし日本におけるアニメは世界の本質、まさしく模倣の「ミーメーシス」なのである。

現実で蛇口を何回まわせば水が出る、なんて考える事ありましょうか、映画でもその蛇口の規格に合わせて撮りましょう。しかしアニメは回転数、腕、指の動きまで厳密に決めて作画する。

まさしく健気な世界の模倣である。非常に芸術的な行為なのである。
エジブトの美術を見よ、あれは一人の作家が一人の作風で培ったものではない、何百年の間、絵を描くことに長けた人間が何百、何千人も同じ作風でエジブト文明を表象したのである。

駿や守、どっちがいいとかじゃない、アニメは個別化し、先鋭化した美術を画一的に収束して、100年後、200年後から観た2020年辺りの美学を平明化する掃除機の入り口のごとく収束化し、美学というものを再考する起点になる時代になると無縁墓場から確信する。

以上


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