暇と退屈の倫理学

まとめ
人間は動物と同じようにそれぞれの環世界を作り出すことができる。そして動物以上に卓越した環世界移動能力を有し、新しい世界観を獲得することができる。しかし、世界観の構築には新しい習慣の創造が必要である。習慣とは反復であり、一定の安定性の中であたらしい世界が作り出させれる。

暇と退屈においては、2×2のマトリクスで表現できる。暇はないが退屈している状態。これが人間的な生であり、ときおり生じる退屈を気晴らしで乗り越えていく。この安定と均衡の中で人間は生きている。なんとなく退屈だという暇があり、かつ退屈な状態を人は耐えれず、何かを決断し奴隷になってしまう。資格の勉強を始めたり。

現代の大量消費社会は、供給側の論理で、観念を消費させられている。その結果、消費を重ねても終わりはなく、無限の退屈に飲み込まれる。一方で浪費は物そのものを受け取ることであるため、終わりがあり満足する。楽しむことが浪費のきっかけ。

人間的な生における気晴らし、これを楽しむことが浪費的な生活につながる。日々の生活の中の快をしっかり楽しむ。それを極めていくと、その楽しみについて思考をおこなうようになり、没頭という状態に陥る。

結論として、「人はなんとなく退屈という状態に我慢ができない。その状態で長くいることはできず、何かを決断して奴隷になる。そしてこの奴隷の時には何も思考できない。」この表記はすごいわかる。私なんかは「悩む」ことが苦手で、すぐに奴隷になりたがる。そして環世界の移動が苦手で、あたらしい世界が到来すると驚き、対応するのに苦慮する。この2点で今までの私の人生の苦労の大部分は説明できるのだろう。社会人になったことや新しい会社に入ったりするときの極度な思考力の低下はいつものこと。
そして、二つ目の結論としての「日常の快を浪費する」といつのは、刹那的な感覚を大事にするという点で非常に納得。チンパンジー化なのかもしれないが、未来や過去に囚われるのではなく、現在に集中するというのは禅でも言われている考え方。ある程度の北極星的展望を仮おきしたら、あとは日常を精一杯いきて楽しむこと。これが退屈から解放されて生を満喫することにつながるのではないか。私なりには、毎日の仕事を楽しみ、運動を楽しみ、サウナを楽しみ、食事を楽しみ、パートナー、友人との出会いを楽しむ。このような楽しみの延長線上に形となった何かが生まれる。
最後に環世界についてはある種納得感がある。「人間は生きていく中で自分なりの環世界を作り上げていく。」その指摘はごもっとも、歳をとっていけばいくほど、自己と世界への認識の相違がなくなり、しっかりとした認識ができるようになる。その過程の中で、私は社会全体をしっかり捉えるべく、仕事と勉強に励み、自分が満足する環世界を構築したい。これがある種の根源的な知的欲求のような物なのかもしれない。

総じて、学際的なアプローチ、さまざまなフレームワークが援用されていて、思考の体操としても大変参考になった本であった。

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