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合気道家という生き物

 プレゼン資料や議事録ばかりを仕事で書いていると、無性に長い文章を書きたくなることがある。
特段書きたいことがあるわけではないのだが、気の向くままに文字を書き連ねたいと思う。
 私は合気道という武道を6年ほど嗜んでいる。合気道には試合がない。試合で相手に勝つことを目的に稽古するのでなく、自分の技と心身を鍛えるために日々修行に励む。基本技と呼ばれる技がいくつかあるが、合気道家は稽古初日からキャリア30年の有段者になっても同じ技を稽古する。動きの形を覚え、その動きの意味(理合という)を理解し、自由自在に応用できるまで繰り返し稽古を重ねる。まさに古来から言われる「守破離」を体現するべく日夜励んでいる。
 「守破離」とはよく言ったもので、まずは「守」、あるべき形を体得することから始まる。簡単そうにいうが、これが1番難しい。あるべき形を体得するには、①正しい形がどのようなものか「知る」(見ると言った方が正しいかもしれない)②その形がどのような仕組みとなっているかを「理解」する。③理屈通りに形を「再現」できるようになる。このプロセスを経ることが必要である。つまり、「知る」、「分かる」、「出来る」の3段階を経て、初めて「守」の段階をクリアできる。そしてこの3段階は必ずしも直線的には進まない。正しい形を知って、理合を理解したと思っても、その理解がてんで的外れなことはよくある。合気道家は稽古の中でこのプロセスを延々と繰り返しているのである。「できたと思ったらできてなかった、理合の理解が違ってた」など日々自分の限界と向き合うのである。できない自分と向き合いながらも長年稽古を続けられるのは、昨日まではわからなかったことが、ふとしたきっかけでわかるようになったりするからである。小さな成長実感を糧に、また自分と向き合い続ける稽古に励むのである。合気道家とはそういう生き物である。

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