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「満ちてゆく」誰よりも愛に真摯な藤井風が歌うラブソング

映画「四月になれば彼女は」の公開に先立って、藤井風さんが歌う主題歌「満ちてゆく」が配信された。

楽曲というより、芸術作品と言いたくなる。
紡がれた言葉一つひとつが、光を帯びて輝いている。
ゆったりと進んでゆくメロディが、一音一音、体中の細胞を揺さぶる。

繊細でいて、壮大。
孤独のようで、開放されている。
さみしさとぬくもりが共にある。

MVは母と息子の物語

山田智和監督の手によるMVも同時公開された。
愛が不在のラブストーリーに添えた主題歌が、存在が愛そのものの母との人生を振り返る、息子からのラブストーリーに姿を変えていた。

幼いころのあたたかな思い出の時間にも、人生が思うようにいかないときにも、母はいつも寄り添ってくれていた。愛と共に。
うなだれて帰路に就く電車の中に、仲間と談笑していた同じ椅子に、ピアノを演奏する目線の先に、そっと姿を現して。

やがて母が生きた時間を超え、自分が空に帰る時間が近づいたときにも、迎えに来てくれたのは母だった。

印象的なシーンがある。海の中で、赤い袖の小さな手と母の手が、そっと離れていくシーンだ。

ずっとつないでいたい母の手も、けっして放したくない息子の手も、共に放す。
すると、海に沈んでいた体がふわりふわりと上昇していく。

手を放した母は、そのとき、息子に愛を与えたのではないだろうか。
その愛で満たされた息子は、恐れることなく、自分の人生を歩み始めたのではないだろうか。
母はそうやって、どんなときにも息子に愛を与え続けてきた。

やがて成長し、その愛に気づくことができた息子は、母の姿を追ってたどりついた教会で、解放され、笑顔になってゆく。とても幸せそうだ。

さらに時が流れ、年老いた彼が雪道を車いすで目指す場所は、母の絵が飾られたギャラリー。冒頭のシーンとつながっているのがわかり、痛ましさや終わりの予感で胸が締めつけられる。

教会で母の愛に気づいたときは笑顔になり、ギャラリーでは母の絵を前にして、涙にくれる。
場所と時、抱いた感情が違っても、母への愛が奥底からこみあげてきているのがわかる。
涙も笑顔も、同じ愛でできている。

ペンが手からこぼれ、息子の魂は身体を去った。
そのとき、息子の背中にそっとショールをかけたのは、まぎれもなく母親だ。

それは、息子の隣りでピアノを弾いていたときにも、海の中で息子の手を放したときにも肩に掛けていた、同じショールだった。

にじみ出る死生観と愛のとらえ方

歌詞にもやはり、風さんの死生観がにじみ出ていた。生も死も、愛に包まれている出来事なのだよと、教えてくれているようだ。

始まったものは、やがて終わりが来ること。
変化していくのは仕方がないこと。
でも、放したくないとぎゅっと握りしめたものを手放したその先には、軽くなって自由になった自分がいること。
死はそういうものだよ、だから大丈夫なんだよと、背中をポンポンと叩いてくれているようだ。

やがて生死を超えてつながる
軽くなる
満ちてゆく

この歌詞にはやられた。
死しても孤独にはならないよ、心配なんていらないんだと、不安を打ち消してくれる。
いつものように押し付けがましくなく、心地の良い、人肌の温度で。

風さんだからこそ書けたラブソング

風さんが歌詞に書いた「手を放す」というのは、あきらめたのでも、捨てたのでもなく、お互いを動けなくしていた恐れを捨てることを表現しているのだと思っている。

恋愛は、この執着を手放すのが難しい。むしろ、執着があってこそ成り立つものと、言っていいかもしれない。

ラブソングを書こうとしたら、ずっと表現してきたものの延長線上のものになったという風さんだが、【恋愛から執着を引くと愛が残る】という数式を成り立たせてできあがったのが、この「満ちてゆく」という作品なのかもしれない。


わたしたちは、愛を体いっぱいに詰め込んで生まれてくる。その愛はけっして足りなかったり、減ったりせず、いつもいつも注がれ続け、満たされているものだ。

だから、何かの終わりが来たとしても、少しも恐れることはない。愛する人が目の前からいなくなったとしても、愛を感じられなくなるわけではないのだから。


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