#『歎異抄聴記』をインテリアにしない No.3
1、二種深信って?
曽我量深師は『歎異抄聴記』において、編者等について述べたあと、二種深信(ニシュジンシン)の話をしていきます。
二種深信から具体的に入ったのは、これが真宗における信の要だと考えてのことでしょう。
まず二種深信について、簡単に解説しましょう。
『観無量寿経』というお経のなかに、必ず具えるべき三つの信が説かれます。
それは、
①至誠心(シジョウシン)
②深心(ジンシン)
③回向発願心(エコウホツガンシン)
であり、これを三心(サンジン)といいます。
ひとつ注意すべきことは、この「信」は、私たちが使う「信仰」とは別の意味と考えるべきです。
なぜなら「信仰」という言葉は、そもそも仏教の中ではあまり使われないうえに、私たちが普段使っている「信仰」というイメージをもって、仏教における「信」という課題と向き合おうとすると、混乱が生じてしまうからです。
むかしの漢訳仏典や日本の仏教書に「信仰」という言葉は、ほとんど使われていませんし、法然聖人はごくたまに使いますが、親鸞聖人は全く使っていません。
それに対して、一般古典には散見されます。
このように仏教書では使われないけれど、一般では広く使われる言葉なのです。
そういう言葉ほど注意が必要で、仏教において「信」を課題とするときは、私たちが普段使っている「信仰」とは別物と見るべきでしょう。
それでは「信仰」と「信」では、何が違うのでしょうか。
「信仰」は、対象が広くぼんやりしています。
それに対して、「信」は対象と内容が明確です。
三心についてみると、『観無量寿経』のなかでは明確な説明がありませんが、善導(ゼンドウ・中国の高僧・613-681)大師が『観無量寿経』を解釈した書物に、それぞれ明確に示しています。
そこで善導大師は三心のなか、二番目の深心について、これは「深く信じる心」すなわち「深信」と見るべきであるとし、それは七種類の深信に分類できるとしたのです。
親鸞聖人もこれをうけて、深信に注目をし、善導大師が整理した七種類の深信のなか、第一と第二の深信に注目をし、それを二種深信として大切にしました。
その二種とは、第一を「機の深信」といい、第二を「法の深信」といいます。
機の深信について善導大師は、
「一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。」
と述べています。
これは救われることが難しい自分であることを知るということですが、「罪悪生死の凡夫」であることを知るということではありません。「罪悪生死の凡夫は、出離の縁あることなし」ということを知るということなのです。
これは似ているようで、全く違うのです。
凡夫の自覚ではなく、凡夫は救われることがないという絶望のような自覚です。
次に法の深信について善導大師は、
「二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。」
と述べています。
これは「法」すなわち「教え」を深く信じるということです。
この二種深信について、曽我師はどのように述べているのでしょう。
少しだけ読み解いてみたいと思います。
2、曽我師の二種深信観
二種深信について様々な解釈があり、それを取り上げたうえで、結局は「仏願の生起本末を明かす」に尽きると述べている。
「本末」とは、始めと終わりのことであるとも述べます。
なるほど。
極まるほどシンプルに言い切っておられるのに、曽我師の言葉は、聞く者、読む者に、求めざるを得なくなるような課題を与える。
このシンプルさについて、曽我師は次のようにも述べている。
「聖典は、一字一句もゆるがせにしてはならぬが、また一字一句に拘泥してはならぬ。」
と述べ、また続けて、
「一字一句に拘泥しては、つらぬく精神がわからない。そうかといってことばを粗略に読んではならない。ではどうしたらよいかといっても、説明するわけにはいかないが、これは長いあいだに自然にわかるものである。」
と。
やはり一字一句、大切に学び続けるしかない。
そしてその先にある景色を楽しみに、日々歩んでいこうと改めて決意させる言葉でもある。
さて話を戻していきたい。
二種深信について、それは「仏願の生起本末」であると。
「仏願」とは、阿弥陀仏の誓いのことである。
「生起」とは、その誓いが起きることである。
その「本末」ということであり、それを曽我師は「始めと終わり」と述べている。
しかし始めと終わりといっても、始終それぞれについて聞くのではなく、始めのみを聞く。
なぜかといえば、始めは「本(もと)」であり、それを聞けば、終わりは自然とわかるのである。
よって善導大師は、法の深信から機の深信を開いていく。
そして、機の深信のなかに、法の深信がおさまる。
二種深信は、二種類あるとみるのではない。
すべては流れるように、存在していると見ているのであろう。
そしてこの流れるような二種深信観は、善導大師から法然聖人へも受け継がれ、親鸞聖人へと到着く。
曽我師が言われるように、二種深信は、仏願の生起本末を聞くことであり、それは始まり、すなわち本(もと)を聞くことである。
これは真宗は、つねに阿弥陀仏の話をしているのであって、私たちのことは、阿弥陀仏が救う対象として語られるということを、まずもって知るべきとの忠告に思える。
教えを聞くのは私で、念仏を称えるのも私である。
ともすれば教えを聞いているうちに、いつのまにか私の話として聞いてしまいがちになる。
どこまでも阿弥陀仏の話である。
その流れのなかに、私のことが語られる。
そこが大切なのだと、改めて知らされる思いがした。
3、本願の門を開く
曽我師は二種深信のまとめとして、「欲生」を提示する。
欲生我国が大切なのだと。
そしてこの安居では、「欲生」の見解を明らかにしたいとし、「わたくしは真宗学、新しい真宗学、時代相応の教学の問題は、欲生我国をあきらかにするにある。」と断言し、「欲生があきらかになれば、真宗学はあきらかになる。」と述べる。
その欲生について、曽我師は浄土の門であり、本願の門であるとし、それが如来の本願のはじまり、すなわち生起本末の、本であるとしている。
たしかに浄土門は、欲生にはじまるのであると言える。
信心仏性を目覚めさせるためには、仏は我に欲生を開かせる。
そのために仏が信楽を回向する。
また曽我師は、浄土は西岸にあるが、浄土の門は東岸にあるという。
「この人生において浄土の東門がある。」と。
東門...これを読んだとき、『歎異抄』後序にある一文を思い浮かべた。
「煩悩具足の凡夫火宅無常の世界はよろづのこと、みなもってそらごと、たはごと、まことあるなきに、ただ念仏のみぞ、まことにおはします。」
我らに真実はない。
燃え盛る「火宅」のなかにある私は、西を向いていても、いつも間にか反対の東を向いて進んでいる。
実は私はあまり曽我師のものは読んでこなかった。理由は、その余裕がなかったことに尽きる。
まずは親鸞聖人、そして法然聖人、そこをしっかり読んでいきたい。
その思いが強かった。
ただこれは以前にも読んだことがあるが、そのときとは違った衝撃を受ける。
読むたびに、発見がある。
読むたびに、驚かされる。
同時に、その衝撃を冷静に整理したくなる。
そして曽我師を学んでいない私が、生意気にもこんなことをしている。
そんなことも含めて、仏教はおもしろい。
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