死刑反対派の持ち出す「社会契約論」、まじカスカス


▼ 人間は生物だ。生物たる人間は、自分の欲求に基づいて動くように生まれ落ちる。
 何ら規律等を与えることなく、ナチュラルボーンに他者を侵害しない行動ができるように育つ人間はおそらくいないだろう。

 そのような生物が、気の遠くなるような年月と個体の生死を重ねて、多くの個体にとってより良く生きる環境を試行錯誤で作り上げ、その中で「コミュニティ」が生まれ秩序の創造と維持が図られてきた。

 人がより良く生きる環境を作り上げるための最重要の秩序は、自分の身体生命や衣食住などが「他者から侵害されない」ことだろう。
 それは、下層の人を侵害してもいいという取扱いが蔓延するようなコミュニティにおいても、そうだ。コミュニティの主力層の間では、歪で不完全ながらも「他者から侵害されない」秩序が目指される。


▼そのような「他人から侵害されない」秩序というのはつまり「私はあなたを侵害しません。あなたも私を侵害しません」という約束を多くが共有していることで成り立つ。
 ところが単に「侵害しません」と言っただけでは、自分の欲求に基づいて動く生き物の多くがそんなものを守ってくれるという保証は特に無いのだ。

 では、その約束は何で担保される得るのか。

 簡単な話だ。「でもあなたが私を侵害するのなら、あなたも〇〇から侵害されます」という(潜在的や暗黙を含む)合意である。これによる担保は「抑止力」と呼ばれることもある。
 
▼少し脱線する。「目には目を」「歯には歯を」という、他者を侵害したものへの応報を求める考えがある。

 たしかに応報(=仕返し)という視点だけで見ればこれは非常に感情的に思えるが、これもさきほどの合意という視点で見れば、応報というのは「あなたが私を侵害」した場合にはじめて起きる「あなたも侵害されます」をドラマティックに表現したにすぎない。

▼話を戻す。「でもあなたが私を侵害するのなら、あなたも〇〇から侵害されます」の「〇〇」を「私」ではなくコミュニティーの大規模形態である「国家」だとした場合。出てくる疑問は「なぜ国家が私になり代わって私を侵害したあなたを侵害するのか」だろう。

 これも単純な話である。「私」がそのコミュニティに自分がより良く生きる環境を作り上げるための最重要な「秩序」を委託しているからだ。

-----------------------

     ↑
■はい、というわけで(脱線部分以外は) あ え て 誰かの論をベースに社会契約説臭を控えめにして自分で考えた風味に崩した死刑存置派(賛成派)からの文章だというのに気が付きましたでしょうかね?

 種明かしをすれば…

 私が書いた冒頭部分から脱線手前までは、社会契約説から死刑肯定を述べた刑法学者の竹田直平氏の「人間は本来利己的恣意的な行動を為す傾向を有するので、他人からの不侵害の約束と、その約束の遵守を有効に担保する方法とが提供されない限り、何人も自己の生命や自由、幸福の安全を確保することができない」がベース。

 脱線から話を戻した後の部分は、人の自然権はコミュニティの立法権力に付託されてそのコミュニティが統治者に執行権を委託している、というロックの社会契約説がベース。

■さて。死刑反対派の中には社会契約論を持ち出す者は決して珍しくもない。そうして彼らは往々にして言葉を尽くさない。

 たとえば、昨日ツイッターでやりとりした社会契約論にたつ死刑反対派法曹は、先に存置派が論証すべきと言っていたので「どちらが先に論証すべきかといえばそっちだ。お先に」と私が繰り返す間にこのようなやりとりがあった。

 なぜそれが死刑存置派に通用すると思ってるの…社会契約説からでも死刑肯定(存置)唱えられるのに…。
 死刑反対派が「人には生命の自己処分権がないと考えているので」という考えに立つのは自由だけど、その考えに立たなければ導けない「国家が死なせるのは授権の範囲を超えている」なんざ、肯定派の私からすれば「いいえ。私は人には生命の自己処分権があると考えているので、国家が死なせるのは授権の範囲内です」で終わってしまう。

 ついでに、Mr.社会契約論のルソー様の言葉を借りると
「刺客の犠牲にならないためにこそ、われわれは刺客になった場合には死刑になることを承諾しているのだ」
と返せば終わる話。

 別にこれが正しいとも言う気はないけど、反対派が社会契約持ち出してその程度しか言えないならこちらもこの程度で充分ってこと。

 が、こんなの引用するのさえ本当に馬鹿らしい話だ。死刑についての議論関係なく、社会契約説そのものが民主主義の理論的主柱になると同時に全体主義的解釈も可能であり、そのような解釈に委ねられる「社会契約」というぼんやりしたワードでもって何かを説得的に語れると思わないほうがいい。こんなものどの解釈も正解なんかないのだから。

■もっとひどかったのが、相互の人からリンクもらって知ったこの人物のツイート。

このツイートは別にいい。

奇妙なのがその後だ。

突然ぶっこまれる「被害者の素朴な意識」。

 国民の復讐権を国家に「授権」する話で、「被害者の素朴な意識」などという恐ろしく雑なものをもってきてる。

 そもそも、被害者全部に共通した「素朴な意識」なんてものはなく、この人物が勝手に「被害者の素朴な意識」を「~でしょうね」と想像しているだけ。

 この人はもしや、国による処罰を求める法律行為である告訴が現に被害者たちによって行われていることを知らないのではなかろうか。告訴した被害者たちの中に「国家に私の代わりに復讐してほしい!」という「被害者の素朴な意識」を持つものが「いない」と考えるほうが困難でしょ。

 「ジョンロック流の社会契約説を~」から始まって何を言い出すのかと思えば「ぼくのかんがえたひがいしゃのそぼくないしき」で「そんな授権はしてないとなるでしょうね」。

 「社会契約」というぼんやりしたワードを持ち出してもこうやって崩壊してゆく人を見てると、果たしてこの人は本当に法学をやっているのかさえ疑わしくなってくる。

■つまりは、なにが言いたいかといえば。死刑存置派(賛成派)のみなさんは…

反対派が持ち出す「社会契約(説)」というワードに気圧される必要一切無し

ということです。存置派の立場からすれば「知るかよばーか」「その説こっちが採用する義務ねーだろ」で済んでしまう程度のことしか言ってないの、めっちゃ多いから。まじこれ。

■以上、昨日、死刑反対派法曹に論点ズラされた部分(元の論点でない部分)であそんでみました~。