第二話ヒロユキとノブちん(『HOME』より)
第二話 ヒロユキとノブちん
ヒロユキに会いたいよ、ノブちんに会いたいよ。今朝、郵便ポストに届いた絵はがきを眺めながら思う。満面の笑みを浮かべた夫と、少しはにかんで緊張した表情の息子が、桜の木の下で並んで写っている。きっとこの写真を撮ったのは義母だろう。ヒロユキの笑顔を見れば分かる。
ここはどこだろう。こんな立派な桜の木があって、後ろのほうには金網と黄色いブランコが見えている。線路沿いの公園だろうか。金網に見覚えがあるけど、でもこんな桜の木があの公園にあっただろうか、記憶にない。
ノブちん。あの小さいノブちんがランドセルを背負っている。いつもそうだけど、写真を撮る時にちゃんと撮らせてくれない。カメラを向けられるのが苦手のようで、そっぽを向いたり嫌そうな表情をする、仕方なくそのままの表情で撮るのだが、このはがきの写真は目線だけはカメラを向いている。
一丁前にシャツと紺色のベストを着て、髪の毛もムースか何かをつけてきちんと整えてある。しばらく見ないうちにお兄ちゃんだ。うれしくなる。ノブちんに会いたい。ほっぺたをつねりたい。ぎゅっと抱きしめたい。一年生だね、がんばってねと声をかけてあげたい。絵はがきのノブちんの顔を、指先でなぞる。今すぐ会いたい。
うーんと、私の横で寝ている未央が寝言を言う。よしよしと足下を手でなでる。未央は指を口に運ぶと、親指をおしゃぶりした。ちゅっちゅという指を吸う音が部屋に響く。
会いたい。ノブちんに。
未央も、母子疎開をした十一か月前と比べるとずいぶん大きくなった。お兄ちゃんのことが大好きで、ノブちんの声を聞くと決まってけららと楽しそうな声をあげて笑った。ノブちんも妹のことが好きで、おもちゃのブロックで遊んでくれたりと、よく面倒をみてくれた。
もう泣かないと誓ったのに、四人で暮らしていたあの日々を思うと自然と涙が溢れてくる。ヒロユキは仕事から帰ってくると、決まって玄関先で靴下を脱いだままにしておく癖があった。小学校の頃からの習慣だから、今さら直せと言われても無理だと開き直っていた。私にしてみれば、洗濯をするたびに玄関先に靴下を取りに行かなくちゃならないし、急な来客があった時に恥ずかしくて、口ゲンカになることが多かった。その程度のことで、離婚をしようかと悩んだ夜もあった。
あの日々が懐かしい。あの日に戻りたい。こんな人とどうして結婚したんだろうと後悔した時も何度もあったけれど、でも今思えばそれは賛沢な悩みだった。私の我侭だったと謝ってもいいかもしれない。今日の私たち家族に比べれば、あの日々の私たちはひとつ屋根の下にいて、確かに幸せだった。
未央を起こさないようにゆっくり蒲団から起き上がる。のびをしてカーテンを開けて外を眺める。六畳間の部屋にひとつだけある窓から海が見える。私と未央が母子疎開に選んだのは、築二十年の古いアパートだった。お寺に続く坂の途中にあって、同じように古い建物がひしめきあう場所なのに、前の建物にじゃまされず海が見えた。
家族四人で暮らしていたマンションからも海が見えたけれど、オートロックの四十階建てで私たちは二十八階の部分に住んでいた。海を見るというよりも上から見下ろすという感じだったし、マンションを買った最初の頃こそ夜景がきれいだとはしゃいでベランダに出たけれど、ビル群の明かりと高速道路を行き交う車のヘッドライトには次第に飽きてしまった。友人たちを招いてのベランダでのパーティーは、結局最初の年だけで、その時に買ったテーブルとイスは、この三年間寂しくベランダに放置されたままになっていた。
小さなこの部屋の窓から見える海は、目線の高さに見える。青い海。未央は散歩の時に浜辺を歩くのが好きだ。カモメや小さなカニを見つけてはしゃいだり、よちよち歩きで砂だらけになりながらどこまでも歩き回っている。この町の空気はおいしい。ノブちんは砂浜で遊んだことがない。ましてやあんな事故が起きてからは、砂場に近寄ることをさせなかった。マンションのエントランスの脇にある植え込みの土は、一○万ベクレルを超えていた。そんな場所にヒロユキとノブちんがまだいると思うと、胸が張り裂けそうになる。
私は何度目かの相談の後、変わらず避難に反対するヒロユキに愛想が尽きた。この子を守るのは私しかいないと思った時、私は覚悟を決めた。そして、未央を抱っこひもで抱えて、ノブちんの手を引いて新幹線乗り場に向かった。ヒロユキは反対するのも諦めて、荷物を持って無言のまま駅までついて来た。
出発の時間が近づいても、ヒロユキと私は一言も会話を交わさなかった。いよいよ出発の時間まであと十五分となり改札の前まで移動した時に、この日初めてヒロユキが口を開いた。「本当に行くのか?」私は無言で頷いた。ヒロユキは深いため息をついて「こいつらが困らない程度に仕送りするから。俺も余裕がないけど、時間見つけたら一度そっちに行くよ」と言った。夫がこんなことを言うとは思わなかった。私の覚悟が本物だと知って、妥協することにしたのだろうか。
時間ぎりぎりまで改札の外にいた。とくにそれ以上の会話は交わさなかった。ヒロユキにしてみれば、両親を置いたまま私の意見にあわせて避難をするのは難しいのだろう。義祖母は介護が必要だったし、空いた時間にヒロユキが介護の手伝いをしていたこともあって、そうした家族の事情は私にだってよく理解できた。でも、それでも本音を言えば、ヒロユキが今すぐに私たちの手を引いて「一緒に行こう」と言ってくれることを思い描いた。ありきたりのトレンディードラマでいいから、そんな大逆転がこの瞬間に起きることを願った。
しかしその時、それ以上の予想外のことが起きた。ノブちんが私の手を振り払って、ヒロユキの元に走ったのだ。
「ノブちんおいで、これから新幹線に乗るんだよ。早くしないともう行っちゃうよ」
「行ってもいいもん、のりたくないもん。ぼくはパパといっしょがいいもん。パパといっしょにいるもん」
「ノブちん、ママといこうよ、海も山もあるとこだよ。ノブちん行きたがってたでしょう? 海に行っておさかなさんとるんでしょう?」
「いいもん。しないもん。パパといっしょがいいもん」
ノブちんはヒロユキの足下にしがみついて、その足に顔をうずめて泣いた。ノブちんの意志は固いようだった。時計を見る。新幹線が出発する時間が五分後に迫った。もうホームに向かわなくては。私は焦った。
「ひとまず行くといいよ。今日のところはこっちで連れて帰るから。またタイミング見てすぐに一緒に連れて行くよ」
「いや。ノブちんとここで離れたくない」
ヒロユキの目を見た。目と目が合った。夫の目を正面から見つめたのは久しぶりだった。世界を揺るがすあの事故が起きてから、私たちの暮らすマンションの周辺がひどく汚染されていると分かってから、私たち夫婦は無意識のうちに深刻な話題を避けてお互いが傷付かないようにしてきた。心の内を打ち明けても、そうだねとか、仕方がないねとか、相手の気持ちに配慮して、できるだけ正面から向き合うことを避けていた。気が付くと、こうして目と目を合わせて見つめ合うことがなくなっていた。
「はやくしないと、間に合わなくなるぞ。引っ越し業者だって明日着くんだろう?」
「うん。ヒロユキ、ノブちんをお願いね」
私はノブちんの頭を撫でて、そして小さな手を上から握った。ノブちんの小さな手が震えていた。ノブちんは顔を埋めたまま、私のことを向いてくれなかった。無理に引っ張ってでも連れて行きたかった。でも、そうしてしまうことがノブちんにとって良いことなのか、私には分からなかったのだ。
あれから十一か月が過ぎた。あっと言う間と言えばそうだし、永遠のようにあの日が続いているような気もする。ノブちんはこっちに来る機会を何度と逃しているうちに、旦那の元で小学校に入学をしてしまった。ランドセルを一緒に買いに行きたかった。入学式に一緒に出たかった。この写真に一緒に写りたかった。
義母は「私らは前と何も変わらない生活をしているし、あなたが心配しすぎたんだと思うから、そろそろ気が済んだら帰ってきなさい。家族は一緒に暮らすのがいいんだから」と、電話をするたびにそんな話になった。
正直なことを言えば、義母にそう言われるたびに心が揺らいだ。私が心配しすぎだったのかもしれない。義母が言うように、テレビも新聞も大変な事態になったとは、いまだ報道していない。もしかすると、海外の専門家たちが懸念したことはこのまま起きず、日本の学者たちが言うように、今回の事故で大きな影響はないのかもしれない。
寂しくなるたびに、心細くなるたびに、そうして心が揺らいで明日にはヒロユキとノブちんの元に帰ろうと何度も思った。そして朝になるたびに、やっぱり私の覚悟は変わらないと気持ちを押し殺して堪えてきたのだ。
マナーモードにしていた電話が震えた。携帯を取る。未央を起こさないようにキッチンの方に移動する。電話はこっちに引っ越して来てから知り合った沼田アヤコさんだった。彼女も同じ母子疎開で来ていた。
「聞いてよ未来さん、わたしね決めたの。わたし離婚する。もうあいつとは別れる」
電話に出るなりアヤコさんは叫ぶように話した。都内で仕事を続ける旦那さんと意見が合わず、このまま年末まで戻らないなら、仕送りも止めるし、離婚も考えると言われたようだった。アヤコさんはそれなら自分のほうから別れてやると泣いた。
「わたし働くわ。章太を保育園に預けて、わたし働く」
「それでいいの? もう少し気持ちが落ち着くのを侍ってから、もう一度旦那さんと話してみたほうがいいんじゃない?」
「ううん。もういいのよ。もう決めたの。あいつの世話になんかならない」
「仕事はどうするの?」
「今から探すのよ。でもね、わたし仕事っていっても今までコンビニでアルバイトしたことくらいしかないのよ。大学卒業してすぐに旦那と結婚して主婦になったから、仕事っていったら大学時代にやってたコンビニの店員くらい。でもそれでも私と章太が食べていく分には充分よ」
「アヤコさんがそう決めたなら、私は応援するよ。時間が空いている時には章太を預かることも出来ると思うし」
「ありがとう。あ、でも考えてみたらうちの近所にコンビニってなかったよね?」
「言われてみたらそうかもしれない」
「だよね。都内のうちの近所だったら、並ぶようにして何か所もあったのに。田舎はこれだから困るのよね。コンビニ以外は自信ないな……似たようなものだとスーパーのレジ打ちかな。そっちにしようかな」
「そうだね」
「あ、そうそう。スーパーで思い出した。あのね駅前の農協にね、県産のキャベツがやっと並び始めてたよ。一緒に買い物に行かない?」
「ほんと? 欲しい欲しい。キャベツは北関東のが並んでいて買い控えしてたから行きたい」
「すぐ用意できる?」
「未央がまだ寝てるけど、準備したら十分くらいで出られると思う」
「よし、それじゃあ駅前の自転車置き場のところで待ち合わせていい?」
「うん、そうしよう」
電話を切る。アヤコさんも気持ちの整理がつかなくて大変なんだと思う。泣いたり笑ったり、いつも感情の起伏が激しい。これまでも離婚するという話題は何度か出ているけれど、やはりこうやって別の話題になるとすっかり離婚の話題からは離れてごまかしながら今日に至っている。
ヒロユキに言わせると「おまえたちは感情の赴くままに生きてて楽でいいな」とのことだ。「俺達サラリーマンは好きなことを好きと言ったり、嫌なことがあるから逃げ出したり、スーパーで野菜を選ぶように、そんなに簡単には選べないんだ」と嘆く。ヒロユキの言う通りかもしれないけれど、それが私たち女が生きる為に身に付けた術だ。
感情の赴くままに生きるということは、何もでたらめに生きるということじゃない。気持ちに素直に生きるということだ。旦那のことが許せないと思っていても、私たちはこうしてキャベツに気持ちを移して、今夜の献立をどうしようかと考えたりしているうちに、旦那の横柄な暴言や靴下を脱ぎ散らかすような態度だって許せるのだ。
未央をそっと抱き起こして抱っこひもに入れる。ぐずるが起きない。一昨年の春に買ったまま、買い替えもできず酷使されくたくたになったハンドバッグと買い物袋を持って、玄関に向かう。姿見で簡単に全身を見る。
少し痩せたかもしれない。ぼさぼさの髪の毛を隠すために帽子をかぶり、靴を履く。靴を履きながら思う。今夜は母子疎開で集まったママ友のみんなにうちに来てもらって、みんなで食事なんてどうだろうと思いつく。アヤコさんもまだ言いたいことあるだろうし、お互いの愚痴を聞くのも疎開生活をこの先も続けて行くためには大事だと思う。
そう思うと俄然気持ちが軽くなってやる気が起きる。キャベツを使って何を作ろうかな。藤原さんや三沢さんにも連絡してみよう。鼻歌交じりに坂道を下りながら、私は携帯に登録してある電話番号を検索する。
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