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数学を無矛盾にしてしまうこと(適当)

ちょっと、思いついて、その思い付きを無にしてしまうことが、なんだかできないので。それで書きます。とても、つまらない話ですが。

ウィキペディアの項目:
ゲーデルの不完全性定理 - Wikipedia
からの引用:
「不完全性定理が示した不完全性とは、数学用語の意味での「特定の形式体系Pにおいて決定不能な命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」とは無関係である。不完全性定理を踏まえても、数学の形式体系の公理は真であり無矛盾であるし、数学の完全性も成立し続けている。」

上記の引用を、もじって言えば、「特定の形式体系Pにおいて、決定可能な命題」の集合のみを、「数学」であると定義(というか、こじつけ)してしまえば、そもそも、その「数学」は無矛盾である、ということになりませんか?

「特定の形式体系Pにおいて決定不能な命題」については、「いや~、それは命題じゃないんですよ。」とか、「いや、それは「数学」じゃないので。」とか、言うことになる。

この直前に書いたエントリでも、真偽を「決定不能な命題」というのは、そもそも"命題″たりうるのだろうか、という疑義を呈しましたけど、それとたぶん同じです。

また、上記のウィキペディア項目から引用すると、
「しかし“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”といった誤解や、“数学には「不完全」な部分があると証明済みであり、数学以外の分野に「不完全」な部分があってもおかしくない”といった誤解が一般社会・哲学・宗教・神学等によって広まり、誤用されている。」

私も、同じようなこと(ただの誤解に基づく戯言)を言い続けているのかもしれません。

野矢茂樹「ウィトゲンシュタイン 『哲学探究』という戦い」岩波書店、の冒頭部を読んでいると、こんな意味合いのことが書いてある。
・ウィトゲンシュタインにとって、哲学は治療であること。
・哲学問題を、問題ではなくしてしまうこと、問題を解消してしまうことが、ウィトゲンシュタインにとっての哲学をすることであった。

私も、そもそも、問題ですらないようなことを、誤解して、問題であるとして、そして、いろいろな、たわごとを言い続けていたのかもしれません。


(追記)
本エントリ「数学を無矛盾にしてしまうこと(適当)」ですが、「数学」の定義(あるいはその解釈)をある特定のものに限定してしまうという考え方を書いています。少し言い直すと、解釈をある特定の一義的なものに限定するということです。

解釈の一義性の強制は、典型的には、法律がそうですが、例えば、あれこれと市井の私たちが法律を勝手に解釈していても、最終的には、法律をどう解釈するかは、裁判あるいは判例という形で決定されます。これは、法律について、最終的に解釈を決定する権利を、国家の権力(=暴力)が掌握している・独占しているということです。

法律の例でわかるように、さまざまな解釈を一義的なものに収斂させ、それを強制することは、実際のところ大きな権力的作用が必要です。ですから、解釈をある特定の一義的なものに限定するという発想は、実のところ、それを後ろから支える途方もない暴力を前提しているということになります。

ですから、「数学を無矛盾にしてしまうこと」は、本エントリに書いたようなことでは、実際には暴力的なことであり、私はそういったことを好みません。そんなことよりも、単純に、数学が矛盾をはらんでいる(※単純すぎて、誤っている言い方なのでしょうが)方がよいと思います。

一方で、冒頭に引用したウィキペディアの項目から、さらに引用すると、
「彼〔ゲーデル〕の結果はヒルベルトの企図を直接否定するものではなく,実際この定理の発見後に無矛盾性証明のための様々な方法論が開発されている」
という記載があり、私があれこれとくだらない妄想を書いているよりも、とっくの昔に、学問というものは、どんどん先に進んでいるのでしょう。そういうことで、単によいわけです。

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