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アリストテレスの第一原因と因果性に関する注釈

以下の記事では、アリストテレスの宇宙論的、または自然神学的な神の存在証明について、少し検討する。

さて、宇宙論的な神の存在証明:「因果律に基づいて、経験による結果から原因への遡行を繰り返す。すると第一原因に到達する」という議論について、すこしおかしいと思われるので、それを検討する。

まず、我々が経験する結果というものは、重層的に決定されている(overdetermination、アルチュセール)のであって、単一の原因から結果に帰着するのではない。

そのために、結果から遡行することで、複数の原因にたどり着く、複数の原因から、また、その複数の原因に帰着する。

そうすると、以下のパターンに因果性の解釈が分かれると考えられる。

(1)結果からの原因への遡行に伴い、無際限の数の原因へと遡行していく場合
この場合も、実際に遡行するという作業がともなうため、無際限にそれが増えるということであり、いきなり無限に到達することはできない。
無際限は、必ず、「ある数」+1という形に帰着するのであり、その意味では有限である。一方、無限は、有限を超越している。

(2)結果から原因への遡行に伴い、有限の数の原因へと遡行していく場合
この場合、以下の2通りにさらに場合分けされる。

(2-A)原因への遡行が、無際限に行われる場合
この場合、我々が行う遡行が、第一原因に到達することはない。因果性の継起関係が、無際限に継続しているだけである。

(2-B)原因への遡行が、有限回に行われる場合
この場合、それ以上さかのぼれない地点に到達するが、以下の2通りにさらに場合分けされる。

(2-B-1)有限回に遡行した地点が、複数の原因で止まる場合
この場合、第一原因と呼ばれるものが、複数個あることになる。

(2-B-2)有限回に遡行した地点が、単一の原因に収束する場合
この場合、アリストテレスのいう意味で、第一原因に到達する。

つまり、経験的な結果から原因への遡行が、第一原因に到達するのは、(2-B-2)の場合のみに過ぎず、しかも、(1)から(2-B-2)までの5分類のどこに、結果からの遡行が帰着するのかは、理性のみでは(先験的には:超越論的には)判断できない。

5分類の1つ、(2-B-2)に帰着する場合は、あまり多くないのではないかとも、個人的な直感としては、無根拠にそう思うが、原理的にはなんともいえないはずである。

(2-B-1)においては、複数の神がいて、(2-B-2)においては、単一神がいる。

それらの起源については、不明である。そもそも、これらは第一原因であるのだから、その起源(因果性に基づく)を考えること自体、原理的に不可能なはずである。

数学においては、前提を仮定する。つまり、前提は堅固な土台の上に乗っているわけではない。あくまでも仮定である。

それでも、どんな前提を仮定しても、ゲーデルの不完全性定理の拘束からは逃れられない。

前提を仮定して、堅固な基盤を捨てても、なお、自立はできない。

つまり、堅固な基盤(第一原因)としての神を捨てても、なお、我々人間は、自立できるわけではない。

神を措定できるのは、(2-B-2)または(2-B-1)の場合になる。しかし、理性のみでは神の存在を証明できない。

信仰というものは、おそらく証明の問題ではなく、(2-B-2)または(2-B-1)をそもそもの前提として(つまり、遡行して到達するのではなく)信じることなのだろう。

つまり、信仰は原理に基づいた思考によって到達するものではなく、最初から、前提されているだけのものであると思われる。

いっぽう、第一原因からすべて(万物)を導きだそうとする(現代の)素粒子物理学は、形而上学的な欲望に取り憑かれていると思われる。

実験を伴わない現代の素粒子物理学は、もはや自然科学ではなく、形而上学的思弁に過ぎない。

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