この行為に対する疑問

ふと、とある疑問が浮かぶ。
今こうして続けている行為についての疑問だ。

ありきたりな話だが、この行為を繰り返して積み上げていく意味を全く見いだせないのだ。
ただし、諦めるという意味ではない。

イメージとしては、砂山にコップ一杯の砂をかけて続けてもたいして大きな積み上げてにはならないだ。
そもそも、砂で何故積み上げようとしたのだろうか?
それは、目の前に砂浜があって、道具もあれば着手することは行動すればいいはなしだったからにほからない。
だけど、石や木で積み上げていった方が、もっと強固で、高くつ積み上げれることは間違えないだろう。

テーマ・目的は自分の思考を積み上げていくこと。
この行為をブラシュアップさせていくには何が必要なのだろうか?
いや、そもそもの方向や角度が間違えているのだろうか?
この疑問は解決する価値があるから、なるだけ早いとこ暫定でもいいから答えを出したいところだ。

通常、文章を書く時、ブログでもなんでも、大事なことはテーマ・議題を前提とした、構成・執筆・推敲(ブラシュアップ)の段階を経てクオリティーを上げていく。

だが、ここでしていることは、上記の工程の執筆を一筆書きでしているということになる。
それでは、文章のクオリティが上がらないことは必至ろう。

ただ、困ったことに、クオリティの高い文章をこの場で書こうという気は毛頭ないのだ。
強いて言えば、全貌のわからないジグソーパズルのピースを作っているようなイメージだ。
逆説的に自分という源泉からピースを作り続けていくことにより、ぼんやりとでも、一つの画が見えてくるのではないかという仮説に基づく実験的意味合いがつよいだろう。

いつか、2chで明治ごろの先祖の日記が出てきたという投稿があったのを思い出した。
こうして、アウトプットを続けていたら、いつの日か果てしない未来の日本人がこの文章も見ることもありあるのだろうか?
果てしなく確率の低い話だが、そう思うと、とてもロマンチックな気がする。

ただ、未来の誰かよりも先に自分が、この行為に価値を見出すのが先決であることは間違えない。
というか、そうでありたい。

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