『グラスリップ』とは何だったのか

序論

 グラスリップというアニメを覚えている人はどれくらいいるだろうか。いまから8年前のアニメである。私はこのアニメを毎週見ていたのだが、まぁ面白くなかった。本作の評価は散々で、ネットでは”味のないガム”と揶揄されていた。どこかのスレで見かけた、無味無臭のガムを噛み続けていればいつか味がするだろうと思って噛み続けていたら結局味がしなかったみたいなアニメ、という評価が本当に正しい。

 ただ、本作は天下のP.A.works作品である。作画の流麗さはもちろん、OP・EDを含め楽曲は素晴らしい。そして前述の評価でもいわれていたように、何かありそう、と思わせるストーリーでもある(内容は全く覚えていないが)。

 かつて私が本作を面白くないと判断したのは、もしかしたら私が無知蒙昧だったからに過ぎないのではないか。あの頃よりも見識を広げた今の自分なら、本作の良さ、あるいは目指したものを読み取ることができるのではないか。なにより、あのアニメの”夏っぽさ”は格別である。イメージだけで生きている。夏の終わりに本作を見返すのも悪くないかもしれない。本記事はそんな『グラスリップ』を捉えなおそうという試みである。この段落までは視聴前に、次の段落からは視聴後に書かれている。もしも面白かったならば、本作の楽しみ方について記述しているだろう。もしも面白くなかったならば、私の得意技である、適当なことを言いまくってそれっぽい評論風に仕上げていることだろう。

本論

 さて、序論をかいたのは8月末のことであった。夏の終わりに見るべきアニメとしては確かにグラスリップは正解だったかもしれない。だが九月に入ると前半は忙しくて味のないガムを食べる時間的余裕はなく、後半はPC逝去からの買い替えや食あたりでダウンなどバタバタしていてやはりカゼミチに集まる余裕はなかった。そんなわけで結局半分くらいは10月に入ってから見ることになってしまったし、結果としてこの記事があがるのも10月半ばのこととなってしまった。もはや夏の終わりどころか秋ど真ん中、どこか冬の気配すら感じる季節である。まぁグラスリップといえば雪という話もあるのでご容赦願いたい。

 さて、本作は喫茶店(カゼミチ)でよく屯っている五人の男女仲良しグループが、ある夏の日にある転校生(沖倉駆)の登場によって少しずつ関係性が変わっていく様子を描く青春ものである。本作の主人公は深水透子であるが、実質的には沖倉駆とのW主人公であるといっていいだろう。ただここが問題で、表情豊かで感情の機微や何考えてるかが分かりやすい透子に比べ、駆は不愛想で言葉足らずで何を考えているか分からない。この辺りが本作をつまらないと思わせている原因であるように感じた。駆が分かりやすく感情移入できる、あるいは応援したくなるキャラクターではないために、その動きを丁寧に追う気が失せるのである。なんなら、お前のせいでみんなの仲がぎくしゃくしだした、という雪哉の指摘にそうだそうだと共感した視聴者の方が多いと思う。

 とはいえ、五人の関係性の変化を駆のせいにするのはフェアではない。少なくとも直接のトリガーを引いたのは「恋愛は解禁で!」と宣言して結果的に雪哉を焚きつけることになった透子の発言のせいであるし、そもそも表面的に取り繕っていただけで元々水面下では恋愛感情が渦巻いていたのだから関係の変化は時間の問題であった。駆の登場は恋愛に唯一無頓着だった透子の心情に変化をもたらしただけに過ぎない。仲良しグループが色恋沙汰でごたごたし、それを乗り越えていくというのは青春ものの基本線といえよう。本作では特に3組のカップルに焦点があてられることになるので、青春群像劇としての性格を持つことになる。とりわけ、駆―透子―雪哉―やなぎの四角関係が話の中心になる。少なくとも中盤までは、このような意味において普通の青春アニメとして見るべきであり、物語性自体は(前述のとおり駆のキャラクター性に大きな問題があることを除けば)特段つまらないということはない。

 透子と駆は、二人のみが持つ特殊な能力、突発的に未来が見える能力を軸に関係性が構築されていく。未来のかけら、と呼ばれるそれは本作を貫く縦軸なのであるが、これの正体が最後まではっきりとは明かされない。結局最終的には未来じゃなかったということになるのだが、適当に見てると???となってしまうのが関の山である。このあたりも本作がつまらないといわれている要因の一つだと思われる。よく分からないキャラがよく分からないことを言い続けているアニメ。そう書くと地獄だ。未来のかけらの正体については真剣に考察している方も多いが、私は別にまじめに考えなくていいと思っている。それは駆と透子をつなぐための物語的装置に過ぎず、話を動かすための便利アイテムだというメタ的理解で十分だろう。むしろ問題は駆のキャラにあり、それは本作の終盤で展開される孤独論と連関で理解しなければならない。

 本作の終盤におけるテーマは「唐突な当たり前の孤独」である。転校を繰り返してきた駆が時折感じたという孤独感を表現したものであり、本作の最終的な着地点となるテーマである。ここに至って、グラスリップは唐突に青春群像劇であることをやめ、駆と透子の内省的世界の問題と正面から取り組むことになる。このあたりのスイッチングも本作がry。この問題も結局はっきりとは解決されないまま物語が終わってしまうので、ネットでは視聴者が唐突で当たり前の孤独を感じた、などと揶揄されてしまうのである。

 ただ、この最終盤の展開はかなり分かりやすく道筋が示されているように思う。つまり、ここはある意味で答え合わせである。駆というキャラがどうしてこうも表情の硬い何考えてるか分からない不気味な奴なのか、その答えだ。簡単に言えば、駆は転校を繰り返したことに起因する、ある特殊な孤独感に苛まれており、本来的に人間関係において積極的な人物ではないのである。それを乗り越えて透子との関係を構築しようとする物語として本作はある。未来のかけらは駆と透子が共有できるほぼ唯一のものであり、そして、透子との関係が深化するにつれ駆からその能力が失われていくのは孤独を乗り越えていくナラティブの一環に過ぎない。

 ではその特殊な孤独感(あるいは孤独観)としての”唐突な当たり前の孤独”とは何なのか。これも明示的に説明がある。駆の孤独を未来のかけらによって追体験した透子は「それはまだ私がみんなと一緒に過ごした忘れられない場所を持っていないから」と述べる。ここでは孤独を人間関係の問題としてではなく場所性の問題として設定しているのが興味深い。グラスリップというアニメは最終盤に至るまで、カゼミチというみんなが集まる喫茶店、さらには日之出浜というみんなが住む町をことに強調しながら描いてきた。また、透子と駆のストーリーがクライマックスを迎えるころ、残りのメンバーはカゼミチに集まっていたが、そこでのやり取りも示唆的である。やなぎが「偶然五人が集まることって前はよくあったよね」と切り出す。しかしそこには透子だけがいない。透子も呼ぼうか、という話になるが、結局は祐の「偶然に集まりたい」という発言によってその日は四人で過ごすことになった。ここでも、人間関係が場所の問題として語られていることが分かる。駆が孤独なのは、転校を繰り返して浅い人間関係しか作れないからではない。それは実際そうなのであろうが、問題の中核は「一緒に過ごした忘れられない場所を持っていない」ことにあるのである。

終章

 本作の楽しみ方について少し触れて本稿を締めたいと思う。まず、本作を鑑賞するにあたっては、仲良し五人組の方に身を置いてしまうと駆が場を引っ掻き回す外部者として立ち現れてくることになる。それ自体は正しい鑑賞だが、そうすると駆が理解不能なキャラであるという側面ばかり目に付くだろう。できるだけ駆に寄り添おうとしながら、正確には駆に寄り添おうとする透子のプロセスとして鑑賞することをお勧めしたい。

 次に、本作はミステリーではないということである。未来のかけらとは何か、幸と祐が読んでいた本には何の意味があるのか、駆の母親が演奏していた局にどんな意味があるのか、止め絵の美学や分身する駆といった独特な演出方法にはどんな意味があるのか、なぜ透子はジョナサンにこだわるのか、これらは本編中では全く明かされない。これらの秘密に迫る物語だと思って見てしまうと戸惑いと憤りに包まれることになる。これらのポイントについては、深読みし甲斐があるものとして全力で考察を楽しむか、あるいは雰囲気を出すための単なる舞台装置だとして空気感を楽しむことに尽くすかどちらかが望ましいであろう。

 もし本作に完璧な鑑賞方法というものがあったとして、そのうえで本作が名作だと言われるに相応しいかは自信がない。ただ、本作のOP「夏の日と君の声」とED「透明な世界」は本当に最高なので聞いてほしい。ただ無意味に無価値に空虚に夏っぽさを感じたいだけなら、何も考えずに頭空っぽにして本作を眺めていると良いだろう(これは皮肉でも何でもない)。考察し甲斐のある作品を求めている方にもお勧めできる作品であるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?