【感想】シン・ウルトラマンを観て

はじめに

 先日何かと話題の映画「シン・ウルトラマン」を観てきた。本記事はその感想となる。本論に入る前に、私のウルトラマン及び庵野秀明経歴について軽く触れておきたい。私はウルトラマンはガイアが大好きであり、僭越ながらガチ勢と名乗ってもよいかもしれない。そのほかに全話観たのはコスモスであり、レオ・ティガ・ダイナに関してはちょろちょろと全部ではないがなんとなく覚えてる程度には観た。庵野作品に関して言えば、エヴァンゲリオンのテレビアニメシリーズと旧劇場版、新劇場版のQまでは観た。あとはトップをねらえ!も観ている。エヴァ最新作を終えていないのはご愛嬌とお許しいただきたい。

 結論から言えば、私はおそらく本作を十分に楽しむことが出来なかった。面白かったことは間違いない。しかし個人的には困惑の方が勝ってしまったと思う。本記事はその辺りの言語化を目的とするものである。

これはウルトラマンではない

 私は多分本作を見る態度を間違えたのだと思う。いかなる作品も文脈を離れて独立に存在しているわけではない。すべての作品は特定の文脈に依存して存立しており、その文脈を参照しながらその意味を読解していくことになる。予告だったりタイトルだったりというのは、その作品がどのような文脈に属するものかを示すマーカーなのだ。そういう観点でいえば、私は本作を第一にウルトラマンシリーズの流れに、第二に庵野作品の文脈に位置づけられるのだろうと思って鑑賞した。だが、おそらく、本作をウルトラマンの文脈に位置づけるのは誤っていた。

 本作が、いわゆるウルトラマンシリーズの伝統の中に、その正統なる継承者として位置づけられるものではないことは殆どの方が同意してくださるように思う。それはシン・ゴジラが歴代ゴジラ作品から革新的に離脱しようとしたのと同様であり、それこそが本作の意図した「リブート」であると思う。歴代ウルトラシリーズの伝統から故意に逸脱しようとしようとした、その揺らぎのなかに本作をいかに評価するかのカギがある。…のだと思っていた。だが事態はそう単純なものではなかった。シン・ゴジラの際にも、意図的に歴代ゴジラシリーズからの逸脱が図られていた。だがそれは、ゴジラの中核的魅力を保存し、それを現代において活かすためのいわば創造的逸脱であった。だが本作をウルトラマンシリーズにおいてそれをやろうとしてしていたと解すると、本作における離脱は破壊的逸脱だったと思えてならない。

 ウルトラマンシリーズにおいてもっとも中核的な楽しさは何であるか、どこでカタルシスを感じるのかといえば、ウルトラマンが光線をぶっ放して怪獣を爆発四散させるところに決まっている。私はウルトラマンガイアを愛している。ガイアに込められた深いメッセージ性、環境保護の必要性やともに地球に住まう仲間じゃないかという思想、あるいはそもそも善悪自体が主観的かつ相対的な概念だという理解などの重いテーマを愛している。だがそれらのメッセージは、最終的にはウルトラマンが怪獣を爆破してくれるからウルトラマンとして成立しているのである。この点に異議を唱えられる方がいるとはどうしても思えない。あるいは、こう言い換えてもいいかもしれない。大人が見ても面白い作品であることと、大人しか見ても面白くない作品の間には越えられない隔絶があるということ、そしてウルトラマンの本質は前者にこそあるべきだということである。強そうな怪獣を正義の味方がぶったおすというカタルシスがすべてのベースに据えられているべきだ。

 そういう意味で考えれば、本作は明らかにその伝統から離脱している。ウルトラマンが怪獣を爆発四散させたのは最序盤の一回のみで、あとは怪獣をグーパンで気絶させたのが一回と宇宙人(本作では外星人とよばれる)を八つ裂き光輪で静かに始末したのが一回である。ラスボスとなるゼットン戦も、主に活躍したのは禍特対(というか滝)であり、ウルトラマンがやったのはシールドを破ってグーパンして全力で逃げる、である。子供たちが目を輝かせていたのはこんなウルトラマンじゃないだろう。強くてかっこよくて悪を圧倒する正義の味方だったはずだ。大人向けに単純な勧善懲悪シナリオからの離脱をはかるにしても、それはウルトラマンが常に怪獣をやっつけてくれるという安心感がフリになっているから効いてくるもののはずなのだ。たしかに、そもそもウルトラマンはテレビシリーズであり、元々映画であるゴジラとは異なる。そういう意味において、ウルトラマンは根本的に映画向きの建付けではない。とはいえ、それを差し引いても本作はウルトラマンシリーズの伝統から破壊的に逸脱していると解さざるを得ないように思う。

 このような理解から、私は本作をウルトラマンの文脈に位置づけることは誤解であり、ガワだけウルトラマンを使って本当は全く違う物語を試みているのだと理解している。あるいは、あまり考えたくないことだがかなりありそうな可能性として、ウルトラマンシリーズの何たるかを理解しておりそれゆえにウルトラマンが怪獣を倒すという部分はもう分かり切っているから再度描く必要はない、かつて子供だった大人だけをターゲットに本作が作られたという理解もありうる。私は子供向けだったことを忘れてしまった作品ほど下らないものは無いと信じているので、本作はそうではないと願いたい。

 本節で展開されたいかなる議論も本作を批判するものではない。もしも本作をウルトラマンシリーズの文脈においてその正統なる後継者とする意図をもって制作したのならば、その試みは明らかに失敗していると主張しているだけだ。それゆえ私は、本作をウルトラマンシリーズの伝統ではない何かほかの文脈において位置づけないといけないのだと信じている。したがって、本作をウルトラマンの文脈において理解できると思って観始めた私の態度はおそらく誤りであったのだろう、ということなのである。

性的描写について

 本作の中核部分に迫る勇気がまだないので枝葉の部分を触ってお茶を濁そうと思う。私はTwitterで、本作を駄作だと断じる人が、「まさか令和の時代になって居酒屋で女性社員にセクハラしてゲラゲラ笑っているような人間しか楽しめないような映画を見ることになるとは思わなかった」というような旨のことを言っているのを目にした。そんなどぎついシーンがあるんかいなと思って本作を観ていたわけだが、なるほどこういうことかという感じだ。

 こういうセンシティブな話題は触れるだけ損をするのであまり言及したくないが、これに関しては私の価値観を表明する良い機会なような気がしたので論じておこうと思う。まず私は、法的政治的権力を用いた表現に対する規制に反対する。表現者は自らが正しいと信じる表現を行う自由が侵されざる権利として保障されるべきである。そして、そうして行われた表現に対する道徳的判断とその表明は個々人の自由であり、これも規制されるべきものではない。重要なのは法的規制の問題と道徳的価値判断の問題を分けて考えなければならないということである。個人的なことは政治的なことである、というフェミニズムの格率をどう考えるかについては明らかにここで論ずるべき範囲を越える。

 ちゃんとTwitter上での議論状況を追っているわけではないので細かいことはわからないが、おそらく問題になっているのは巨大化した長澤まさみの描写がギリギリパンチラしないような際どい撮り方をしていた個所と、斎藤工が長澤まさみの体臭を嗅ぐ個所であろう。結論から言えば、私はこれらのシーンで不快な気持ちにはならなかったし、それらが道徳的にアウトなラインに達しているとは思わない。が、アウトだと思う人がいるだろうなとは思ったし、彼らの判断は十分理解可能なものであると思う。したがって、もしもこのような表現が法的に規制されるべきだという主張があれば、それには絶対に許されないと主張するし、ギャーギャー喚きすぎなんだよこんくらい良いじゃねえか黙ってろと言う奴がいたらその発言は道徳的に正しくないと判断する。

 私が興味を持つのはその超越的な善悪の判断などではなく、これらの描写が本作の演出及びシナリオの上でどのような効果を持っているのかという点に尽きる。しかしいくら頭をひねっても、そういうセクシー描写で喜ぶ層、さすが庵野の性癖は変態で最高だぜ!と言ってくれる層にウケたいという以外の理由が思いつかなかった。誰か分かる人がいたら教えてください。もしこの演出の意図がそこにあるのだとすれば、その狙いは完璧に成功しているといえる。

 この文章を通じて私がこの文脈から本作を批判していると受け止められたら心外なので言い訳しておきたい。そもそも庵野はその作家性から言って大衆ウケというよりはコアなファンからの支持を重要視するのが当然であり、もしこのような意図があったとしてもこれはまっとうな経営判断であって私の批判の対象ではない。もちろん道徳的にアウトだと思った人らがアウトやろと主張するのは自由だが、それは本作の価値を貶めるものではない。少なくともファンと私にとっては。

外星人VS外星人

 本作は明らかに禍威獣よりも外星人との関りがストーリー上のメインに据えられている。この点は二つの意味で重要である。第一に、本作はこの点においてエヴァンゲリオンの文脈からも離脱する。エヴァンゲリオンにおける使徒は、タブリス=カヲルを除いて意思疎通が可能な知的生命体として登場するものではない。これはすなわち、対話可能な存在としての外星人よりも、理解不能な脅威としての禍威獣に近い存在だということである。本作のメインが外星人との対決に据えられるのであれば、それは必然的に本作がエヴァンゲリオンの文脈から離れていく契機になる。第二に、本作の描写はウルトラマンを人間の側から引き離し、外星人と同じカテゴリーであることを強調する。ウルトラマンは地球を守る神のごとき特別な存在ではなく、多くの外星人の一人に過ぎない。これは初代から続くウルトラマンの伝統であるが、その点をかなり強調した構成になっているように思われる。実際に、地球人類のあずかり知らないところで、メフィラス星人やザラブ星人と光の国とのあいだで条約っぽいものが結ばれていることが描写されている。少なくともウルトラマンと同じ光の国出身のゾフィーの持つ価値観は、明らかに人類のもつそれよりもメフィラス星人のものに近しかった。というかゾフィーのファンがブチ切れてないか心配なんだけど大丈夫なのコレ?…と思ったら本作のあいつはゾフィーじゃなくてゾーフィなのね。それで解決なのかは別問題だけれども。(コレが有名なネタであることは承知している。知らん方はニコニコ大百科でも見てくれ)

 話を戻そう。本作の主な対立項は人類VS怪獣という伝統的なウルトラマンシリーズのそれではないことは明らかだ。かと言って、地球人VS外星人という枠組みでもない。政府の首脳は外星人に振り回されまくっていたし、地球を滅ぼそうとする外星人たちとの交渉その他の直接のやり取りを行ったのはすべてウルトラマンたる神永である。すなわち、本作の対立軸は外星人VS外星人なのである。より正確に言えば、地球人類の平和とその自由な発展を願う外星人(ウルトラマン、神永)VS地球人類を資源や数字上の存在としてしかとらえていない外星人(メフィラス、ゾフィー)という構図である。そう考えれば、本作のメッセージがおのずと見えてくる。自分よりも小さきか弱きものと言えども、それを軽んじてはいけない、守ってあげないといけない、それでいて彼らの自由意思を尊重しなければならない、ということである。パターナリズムに対する擁護と批判を良い感じに混ぜてて良いんじゃない?

 …ホントカナー

 これが結論だったらめっちゃつまらんから多分違うと思う。

良かった点

 ゼットンの描写は旧劇エヴァのセカンドインパクトの時の初号機だと思った。さすがに意識してるよね?あと最序盤の怪獣n号〈識別名〉の連打が気持ち良いよね。第三使徒サキエル第四使徒シャムシエル…みたいな。ちなみに僕はラミエルが一番好きです。地味にサハクィエルも好き。エヴァはサハクィエル戦で終わってしまって凡庸な良作として歴史の中に埋もれていく方が世界は幸せだったと思う。僕はアスカ派なので一番好きなエピソードは「瞬間、心、重ねて」です。

 本作の主人公はもはや滝だと言ってもいいと思う(過言)。個人的に本作におけるナンバーワン性癖ぶっさキャラである。ゼットン出現に絶望してすべてを投げ出しちゃうシーン良いよね。あれ完全に大長編のスネ夫だもん。そこから最終盤にかけて覚醒していくのは気持ちがいい。英語の発音が下手なのも馬鹿っぽいしギャップがあって良い。

 禍威獣と禍特対の表記遊びも良い。それぞれ怪獣と科特隊の音だけ拾って感じを変えてるわけだけど、こういう遊びは気持ち良いね。あと八つ裂き光輪撃ちすぎね。これも良い。ザラブをしずかーに殺しちゃうところとかめっちゃよかった。それにしても山本耕史かっこよすぎね。思わずメフィラス応援しちゃったよ。最高。

 もうちょっと色々いえる気もするが、5000字を越えてしまったのでそろそろ終わりたいと思う。

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