今週の小話#7

知に呪われたる者

 先日いつものように散歩をしていると、「知に呪われたる者」というフレーズが思い浮かんだ。言うまでもなく、フランツ・ファノンの「地に呪われたる者」を捩ったものである。私はファノンなんて一度も読んだことがないのだが、親しい知人にファノンの大ファンがいるのでなんとなく親しみはある。ファノンについてはアルジェリアの思想家・運動家でポストコロニアリズムの代表的論客の一人という程度の知識しかない。もちろん「地に呪われたる者」も読んだことがない。なんとなく読んだら嫌いになりそうな気がするので手を出していないという意味もある。そんなファノンの文章をちょっと捩って、学知とか科学主義を皮肉りながら「知に呪われたる者」を書けばなんか面白そうではないか。

 ここまで考えて、きっと前例がたくさんあるだろうな、と思った。誰でも思いつきそうなひねり方だし、見た目もキャッチ―で出来がいい。アカデミアに片足ツッコんだうすら寒い奴らが適当なこと言いまくってそうだ。自分のことを棚に上げて身震いする。やめたやめた。

 一応、検索をかけてみよう。Twitterで”知に呪われたる者”で検索する。……意外と出てこない。呪われていたのは私だけだったのかもしれない。

下鴨納涼古本まつり

 先日、京都は下鴨神社で開かれている下鴨納涼古本まつりに遊びに行った。これは京都を中心に関西の古本屋が20店ほど?集まるイベントであり、一週間ほど開催される。私がこの企画を知ったのは元よりの本好きが高じて...ではない。テレビアニメ「長門有希ちゃんの消失」で取り上げられたからである。ちなみに私は長門といえば情報統合思念体のヒューマノイド・インターフェースのある1個体のことを意味するのであり、決して軍艦やその擬人化ではないと主張したい派閥である。閑話休題。というわけで初めてこの古本市に訪れたのは6、7年前であろうか。以来いくつか棋書も買ったのだが、昨今のご時世柄もあり最近はめっきり参加していなかった。今回は数年ぶりの参戦である。

 適当に本を眺めているとあるタイトルが目に入ってきた。「イタリア入門」。他には何か...ってイタリア入門!?何?イタリアの何についての入門書なん?全て?イタリアの全てについて教えてくれるんか?ちなみにその隣には「フランス入門」という本も置いてあったのだが、こちらは4、5人による共著であった。分野ごとに専門家が書いているならフランスの全てに関する入門書とも言えるかもしれない。それに対して「イタリア入門」は著者一人。単著である。こいつは一人でイタリアの全てについて知ってるんか??全知全能すぎん?

 また別日。適当に本を眺めているとあるタイトルが目に入ってきた。「孫子が太平洋戦争を指揮していたらどうなっていたか」(うろ覚え)。絶対開戦してない。無理な戦争はやらないのが孫子の兵法やろ!どう言い訳をすれば孫子がアメリカと戦争するしかないかーって思えるだろうか。これに関してはパラ見すらしなかったので本当はどういう本なのかすごく気になるのだが、一度素通りした後に見に戻っても見つけることができなかった。古本は一期一会とはいうがこんな形で思い知らされるとは...。

 結局私はこれらの本を買わなかったし読みもしなかった。内容が良い本だったら大層申し訳ない。結局今回は棋書3冊と悪魔の辞典を買って帰った。囲碁本ではとんでもなく古い和書も散見されたが将棋本では見つけることが出来ず残念だった。個人的に一番お買い得だったのは「谷川流攻めの手筋」(¥100)である。今回初めて知ったが秋には知恩寺で古本まつりをやるようなのでそちらも楽しみである。下鴨納涼古本まつりは今月明日まで開催されているので興味のある方は是非。
 

“倍”の意味

 先日いつものように散歩をしていると、ふと疑問がわいた。倍っていう漢字、なんで人偏なんだ?二倍、三倍の倍である。意味的には人偏がつきそうな雰囲気はない。もっとなんか数学的で理論的なイメージの言葉のような気がする。人一倍、という言葉を思い出したが、これがこの漢字の本義ということもないだろう。

 こんな時手元に辞書があればいいのだが、漢字辞典などとうに手放してしまった。高校生の頃に愛用していた電子辞書は大雨に壊されて久しい。というわけで仕方なくスマホで適当にポチポチ調べることにした。

 どうやらこういうことらしい。倍という漢字は形声文字で、偏が意味を、旁が音を表している。そして旁の部分はばいと読むのだが、これが背に通じ、背くという意味になる。人偏と組み合わさることで、ある勢力が離反するという意味が原義だったそうだ。そこから、一つのものが二つに分かれるという意味で倍の現在の意味になったとか。人偏にもちゃんと意味があるんだなぁ。

スマホゲームについて

 私は「マンガ読むくらいなら小説を読め」とか、「ゲームしてるくらいなら外で遊べ」とかいうような言説が大嫌いである。このようなコンテンツ間に貴賤があるかのような価値観は受け入れられない。健全でまともな遊びや娯楽と、そうではないものがあるという理解は私の好むものではない。

 一方で私は、スマホゲームのことをかなり見下しているきらいがある。妹がずっとスマホでゲームをしているのを両親が嘆いていた時、私はあんな下らんゲームをやらせるくらいならswitchでも買い与えてまともなゲームをやらせるべきだと主張した。結局この件がどうなったのか私は知らないが、少なくとも私自身の価値観を明快に示しているといえよう。ここでいうスマホゲームというのは、スマホ版ドラクエのような移植版ではなく、主にソシャゲを念頭に置きながら、基本無料でアプリ内課金ありのゲームたちのことだ。これはダブルスタンダードではないか?

 自分が幼いころから親しんできたものでないと人は受け入れられないのだ、という一般化はこの場合正しくない。なぜなら私は子供のころあまりゲームをさせてもらえず、実家に住んでいたころにやった”まともなゲーム”はポケモンくらいのものだ。高校に入ってipodtouchを、大学に入ってiphoneを買ってもらったときに、スマホゲームをやるようになった。パズドラやパワプロやシャドバなど、まぁ多少はかじってきたと言ってもいいように思う。そしてその後に、switchと友達に借りたSFCによって、私は本格的にドラクエやFFなどのゲームに触れることになる。上記の価値観が形成されたのはこの後の話だ。

 おそらくは、基本無料・アプリ内課金ありというシステム自体が、ゲームとして完成されたものではないように感じられて嫌なのであろう。が、私はこの点について自分が良くない類のダブルスタンダードに陥っているような気がしてならない。どうしたものだろうか。

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