今週の小話#6

ラーメンの種類

 塩ラーメン、醬油ラーメン、豚骨ラーメン、など一口にラーメンと言ってもさまざまな種類がある。ただ、これらの命名は全く体系的ではない。MECEじゃないというか、全然レイヤーの違う話をしている。このことがたいそう不満なので、それについて書いておきたい。

 そもそもラーメンは、カエシ(タレ)をスープで割って作るのが一般的である。やっていることは味噌汁と同じである。味噌がタレで、鰹節や昆布でとった出汁がスープにあたる。ラーメンにおいては、塩だれ、醤油だれ、味噌だれのどれかを使うのがふつうである。このラインナップを見てもらえ分かる通り、塩ラーメンや醤油ラーメン、味噌ラーメンといった命名は使われるタレに注目している。

 しかしラーメンはタレで決まるのではない。スープも重要である。主に使われるのは、豚骨、鶏がら、魚介系などである。つまり何が言いたいかというと、塩ラーメン、とだけ言ってしまうと何のスープを使っているのかが分からないし、鶏がらラーメン、とだけ言っても何のタレを使っているのかが分からないということである。豚骨醤油や鶏塩といった、スープ×タレの組み合わせが明示的な命名がもっと普及してほしいものだ。

「サマータイムマシン・ブルース」を観て

 何か映画を観ようと思って、以前おすすめの映画をTLに問うたときにフォロワーの皆さんに教えていただいた映画のリストを眺めていると、「サマータイムマシン・ブルース」が目に留まった。ゆーすさんにこの作品を教えてもらった時から気にはなっていたのだが、今日目についたのはこの作品の原作がヨーロッパ企画であるというところである。ヨーロッパ企画!実は恥ずかしながらヨーロッパ企画のことを私は全く知らなかった。先のツイートをした時もそうである。京都にそれなりに長く住み、同志社とも浅からぬ縁がありながら、観たことないどころか存在すら知らなかったとはなんたることか!どうしたらそういう情報が入ってくるようになるのだろう。アンテナの立て付けを見直したくて仕方がない。ついこの間はじめてこの劇団の存在を知り、少し気になっていたところで、本作と再会したのである。

 タイムリープを軸にした青春コメディという感じで非常に面白かった。部室でたむろする学生生活も送りたかったなぁ、と思わされる。タイムトラベルものではおなじみともいえるが、序盤の違和感が終盤で回収されるのは本当にお見事である。タイムスリップとは直接は関係ないが、田村のカメラ未来人のくせに古すぎやろと思ってたらしっかり伏線だったのも楽しい。最後のタイトルが出る演出がオシャレすぎるのも言っておかねばなるまい。あと瑛太イケメンすぎな。そして真木よう子美人すぎな。なんだかんだ上野樹里もかわいすぎな。佐々木蔵之介若すぎな。何よりムロツヨシ分からなすぎな。マジで途中まで分からんかった。

 本作の時間観は改変説や世界線分岐説ではなく運命説に近い感じがあるが、それでいて人の意志による未来への力を最後に押し出して終わったのは非常に好感が持てた。とても楽しかったです。ゆーすさんありがとう。

酒と油とパセリの話

 私がその有用性をかつては全く理解していなかったが、今となってはその素晴らしさが多少は分かるものを三つ紹介したい。ラインナップは表題の通りである。

 料理酒。それは安い肉を美味く食うための必須アイテムである。とりあえず酒かけて塩振ればどんな安い肉も食える。さらにいえば小麦粉かコーンスターチを振る、油でコーティングしておくなどすればまだ美味くできる。

 油。私は油のことをフライパンに振って焼いたり炒めたりする準備役を果たすだけの存在でしかないと思っていた。だがこいつらは実際には調味料そのものなのだ。ラードで炒めた野菜炒めはサラダ油とはレベルが違う。オリーブオイルや胡麻油は茹でた野菜にかけて塩と和えるだけで馬鹿みたいに美味い。なんならサラダ油かけても美味い。

 パセリ。パセリと言っても細いブロッコリーみたいなアレのことではなく、スパイスの棚に置いてある粉パセリのことだ。シチューやスープの見栄えを良くするためだけの存在であり、味への影響は皆無と言っても過言ではない。だが、こいつは居るのと居ないのとでは出来栄えが天地の差である。こいつは料理における見た目の重要性をこれでもかと分からせてくれる。

 昔の自分に教えてあげたいものだ。

リア充のすゝめ

 最近はネット上での充実度が比較的下がってきているのを感じる。島ノ葉始まって以来の危機だ。将棋と動画作りに対する熱量が相対的に低下し、noteという新しい発信源を得たものの、書き物をする場にはそもそもあまり困っていない。大好きな番組と大切な番組を失い、多くの戦友が指す順を去り、鬱屈は増すばかりだ。某会も機能不全が著しく、夕暮れとはもう違う色である。そばさんとの定例会が生えてきていなければどうなっていたことか。

 …といった感じで後ろ向きに捉えるのが私の中ではトレンドだったのだが、こういう見解に異を唱える向きが出てきた。というのも、ここ一か月ほど、私はリアルがかつてない充実期に入っているからである(1)。将来に対する漠然とした不安は消えないものの、長らく続いた閉塞感と無力感からは解放されつつある(2)。人生の新たなフェイズに入りそうな予感がある。気がする。つまり、リアルの充実度が増すにつれてネト充である必要性が相対的に低下した結果が、先の危機の原因かもしれない。だとすれば、それは必ずしもマイナスではないだろう。これが一過性の好調ではないことを祈るばかりだ。未来は明るいかもしれない(3)。

(1)ところで、リア充という言葉に付きまとう恋愛強者のニュアンスはどうにかならないものか。恋愛方面が焼け野原であることを除けば、と書き加えようと当初は思っていたのだが、なんだか馬鹿馬鹿しくてやめた。充実度合を恋愛的尺度で測る価値観は強固だ。リアルで生きづらい要素の一つと言えよう。

(2)その一端を担っているのが前回の小話で言及したメモ帳であるのは間違いない。メモ帳は良いぞ、と推したいのだがそういうことを言うと前田裕二が邪魔してくる。YouTubeで堀元見の切り抜きを見たせいでmagic of memosがフラッシュバックしてなんか悔しい。ビジネス書読んでるやつとは思われたくないし、読んでもない本を他人の話だけ聞いて馬鹿にする奴でもありたくない。難しいね。

(3)当初この文章は「もう寂しくないさ」で締める予定であった。これはAdoの「逆光」の歌詞から引いてきたものであるが、この文章全体をこの曲と絡めるのが効果的とは思えなかったのでやめた。逆光は良いぞ。みんな聞こう。

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