『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021』について

 先日表題の映画を観に行った。ドラえもんの映画を劇場に見に行ったのはひみつ道具博物館を五歳下の従妹と見に行った時以来である。ただ、今回は私の最も好きな大長編の一つである宇宙小戦争のリメイクであること、記事を書いたり公開延期したりで期待が高まっていたこと、そしてU‐NEXTポイントが余りまくっていたことなどから、映画館で見ることにした。去年書いた記事はコチラ→(https://note.com/shou_shimanoba/n/n2b2c4f765eef)

 というわけで、何点か感想を述べていきたい。本記事は本作のネタバレを含みます。ご注意ください。

大きなシナリオ改変

 かなり大胆にシナリオを変えてきたな、というのが第一印象である。主な変更点は3つある。第一に、パピがPCIAに捕まる経緯について。原作では地球の公園で人質のしずかちゃんと交換になるのに対し、本作ではそのピンチを乗り切った後のび太らとともに自由同盟の衛星基地まで同行し、その後自らPCIAに投降する。第二に、自由同盟地下アジトがPCIAに襲撃された後の展開である。原作ではのび太・ドラえもん・ジャイアンの三名はここでPCIAに捕縛されるが、本作では脱出に成功する。第三にパピの裁判のシーンが無くなり、代わりにパピがギルモアの戴冠式でテレビ演説するシーンが生まれたことである。これらの改変は、どれも本作を魅力的なものにするうえで非常に大きな役割を果たしたといえる。良改変だと思う。

 本作をまだ見ていない人は、なんでパピ自分から投降したん?と思うかもしれない。ここには複雑な事情がある。ギルモア側の思惑としては、戴冠式においてパピに自分を支持する演説をさせることで、権力を確固たるものにしたいという思惑があった。それゆえ、後述するある人物を人質に取り、ギルモアの戴冠式に出席させたのである。一方、パピにはパピで思惑があったと思われる。すなわち、テレビ中継された場所で国民に向かって演説できるチャンスを得るということである。おそらくパピは、のび太らがPCIAに勝てると確信を持っていなかったのであろう。また、ゲンブら自由同盟が期待していた、市民の蜂起も可能性が低いとみていたのではないか。実際、民衆の蜂起をあてにしたクーデターは大概失敗しているというのが、地球の歴史が我々に教えるところである。したがって、パピは、自らと人質の命を犠牲にしてでも、ギルモアへの不服従を国民に向かって訴えることが、ピリカの自由と民主主義を取り戻すうえで重要だと考えたのだと思う。だとすれば、パピが現段階での武力闘争をあきらめ、テレビ演説に賭けたのも納得できる話である。

 このパピの演説によって、ピリカの市民たちは立ち上がり、大暴動が発生した。原作では、のび太らの武力行使によってPCIAが壊滅した後、それに呼応して市民が立ち上がるという展開だった。本作では、のび太らがまだまだ全然ピンチで、勝機も薄い段階で市民たちが蜂起する。この改変は重要である。ピリカの市民たちは単に勝ち馬に乗ったのではない。のび太らの強大な力を見る前に、自ら進んで決起したのである。そしてそれを引き起こしたのは、パピの演説によるものなのだ。この改変は、実力行使が先行する展開から、言葉の力と市民の力が先行する展開への改変なのである。余談だが、このような理由から、独裁者を打倒せよという文脈で本作を安易にウクライナ問題と絡める論調を私は好まない。

 シナリオの改変点は多かったが、どれもよい結果を生んでいると私は思う。次章では、問題のあのキャラについて論じる。

誰やねんコイツ

 いやお前誰やねん。思わずそうツッコみたくなるカットから映画は始まった。クーデターに襲われる官邸、そこから脱出するパピという流れ自体は原作と同じである。だが、原作ではパピやゲンブといった主要キャラの姿は見せず、会話だけで描写していたはずだ。その効果として、パピがのび太らに正体を明かす際、やっぱりな、という程度ではあるがここでネタバラシ的なアクセントが入っていた。しかし、本作においてはパピやゲンブががっつり映り込んでいる。そのため、パピが正体を明かすシーンに引きがない。

 このような不利益を甘受してまで一番初めのシーンを改変したい理由は、おそらく新キャラであるこの子を早めにお披露目しておきたかったからにほかなるまい。

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 いや誰やねんお前。

 もちろん、リメイクにあたってこういった新キャラを出すのはよくあることである。それが成功し、魅力的なキャラが生まれることも珍しいことではない。ただ、本作においては明らかに失敗している。理由は明白だ。ピイナが全く掘り下げられないのである。

 これは私の予想だが、おそらく尺の都合でカットされてしまっただけで、ピイナに関するエピソードが本当はもっと用意されていたのではないだろうか。そう考えなければあり得ないほどこのキャラが放置されている。パピにとって唯一の肉親でとても大事な人、という以外の要素が最後まで出てこなかった。新キャラなのにもかかわらずである。そもそもなぜ冒頭のパピがピリカを脱出するシーンに彼女はいたのか?彼女は政府の要人だったのか、一般人だったのか?なぜPCIAは彼女を捕まえることに執着していたのか?これらの点が全く説明されないまま物語は終わってしまうのである。

 物語の構造から考えれば、彼女の存在意義はパピに自らギルモアの戴冠式に出席させるための装置である。つまり、パピというキャラクターを動かしやすくするための人質役だ。いやもっとやり方あっただろ、とは思うがきっと才能ある脚本家たちが考えたのだから難しかったのだろう。とにかくこのピイナというキャラ、名前ばかりよく出てきてどういう人物なのか全くわからないまま何となく物語が進んでしまうのである。シナリオの改変が良かっただけに、ピイナの存在がとにかくノイズでしかなかった。もっと掘り下げてくれれば、せめて視聴者に考察したいと思わせるだけのヒントを匂わせてくれれば、印象はだいぶ違ったと思う。結局、映画を見終わってなお誰やねんコイツ状態のままである。

〔追記〕大事なことを書き忘れていた。本作のシナリオ的には、元来ピリカは民主的な国家であるという前提が非常に重要である。パピが十歳にして大統領になれたというのも、それを後押しするものでなければならない。そうであるにも関わらず、血縁者である姉というキャラを出してしまうのは、ピリカの政治が世襲制や華麗なる一族に牛耳られていたことを暗示しかねない。そういう意味でもピイナはノイズである。ピリカの民主主義が健全なものであることを強調するためには、姉なんか出してはいけなかった。ここまでいっておいて何だが、ピイナにはなんの罪も無い。私自身、ここまでキャラをこき下ろさなければならないのが心苦しくて仕方がない。もっと彼女を上手く活かすシナリオは書けなかったのか。希望的観測かもしれないが、製作陣もこの点について悔やんでいると信じたい。

スネ夫の描写

 宇宙小戦争といえば、大長編の中でもトップクラスにスネ夫が活躍する作品として知られる。そういう意味では、本作も比較的スネ夫の活躍がたくさん見られたと思う。重要な改変点が一つあり、それは宇宙船の内部でスネ夫が怖くてふさぎ込んでしまうシーンである。勝てるわけないよ!と叫んでスネ夫がビビり散らかすのは映画ではよくあることだ。本作も例に漏れず、ピリカへ向かう宇宙船の中で、スネ夫はふさぎ込んで部屋にこもってしまう。

 原作では、ここはギャグパートとして処理された。落ち込んでるやつにはよく喋るやつを宛がっておけばいい、という謎理論で、ロコロコの話を延々利かされるというオチである。一方本作では、ここはシリアスなシーンとして描かれた。スネ夫の部屋に向かうのはロコロコではなくパピとなったのだ。これもシナリオ改変の成果と言える。怖がるスネ夫に対し、本当は自分も怖いんだとパピが吐露する。こうして、皆が再び一致団結するのである。これはいい改変だった。

 だが、PCIAの無人戦闘艇の大群が自由同盟の衛星基地を襲撃した際、スネ夫が倉庫の隅でうずくまっておびえるシーンをカットしなかったのはいただけない。あのシーンは、ずっとビビり散らかしていたスネ夫がしずかちゃんを守るために勇気を出して出撃するから映えるシーンなのだ。パピに説得されるシーンとの両立は難しかったと思う。本作ではせっかくパピの話を聞いて腹をくくったと思ったら、いざとなったらまたビビり散らかす奴、という描かれ方になってしまっている。これは人間描写としてはリアルかもしれないが、スネ夫の魅力を引き出すうえではマイナスだと思う。原作からカットされた下りはほかにもいくつかあったので、スネ夫が倉庫の隅でおびえるくだりはカットするべきだった。でなければ、パピとスネ夫が話すという改変は要らなかったと言わざるを得ない。

 おそらく、パピも本当は怖いんだ、実際にはのび太らと同じ少年なんだ、という描写を入れたくて、その聞き手としてスネ夫が選ばれたというだけなんだろう。ただ、本作中においてもパピとのび太が二人で話す描写は多かったし、主人公なんだからそこで深い話をしても不自然ではなかったはずだとおもう。

 いろいろと述べたが、ラジコン戦車の改造などのメカニック面においてはスネ夫の活躍は原作よりも強調されており、珍しくスネ夫が活躍する映画、という評価は今後も揺るがないと思われる。この点については、本リメイクは成功の部類だと思う。

最強の敵ドラコルル

 宇宙小戦争といえば、映画史上最強の敵とも名高いドラコルル長官だろう。原作においては頭の切れる悪役という描かれ方だったのに対し、旧映画版ではすこしコミカルな表現がなされていた。本作ではどうなるのかと気になっていたが、期待以上のものだった。めちゃくちゃ頭が切れて強くてかっこいい、最強の敵ドラコルル健在なりというところを余すところなく見せつけたと思う。

 シナリオ改変の都合で、原作においては読み切っていた部分を読み切れていなかったりする個所もあった。が、それはある程度仕方がない。その分、新規に追加されたシーンで切れ者っぷりを見せていたりするのでトントンだ。いしころぼうしを使ってPCIAの基地に侵入したドラえもんたちを確保して見せたのは離れ業だ。いしころぼうしはそもそも見えなくなる道具ではなくて意識の外に置かれるようになるという反ミーム的道具で、レーダーや熱感知なら発見できるとかそういう類のものではないと思うんだが、おそらく機械的な処理には対応できないんだろうね。

 原作においては、スモールライトの効果切れという裏技がなければ完全勝利間違いなしだったが、本作においてはパピやのび太らを処刑したとしても遅かれ早かれ市民の手によってギルモア独裁は打倒されていたであろうから、そういう意味ではやや格が落ちたとみるべきかもしれない。ただ、制作陣の「ドラコルルはカッコよく描くんだ」という強い熱意を感じられたので、個人的には大満足である。

総評

 細かいポイントで言えば指摘したいところはまだまだある。無人戦闘艇や自由同盟の戦闘機が出す飛行機雲がの描写がとても力の入ったものになっており、宇宙戦争のスケール感をよく演出していた。少年期が流れなかったのは寂しかったが、これは仕方のないことだ。代わりにビリーバンバンみたいな挿入歌が入ってビリーバンバンみたいだなぁと思っていたら本当にビリーバンバンだったのには驚かされた。オチに出来杉を持ってきたのも悪くなかったと思う。

 素晴らしい原作と素晴らしいリメイクの間に生じたギャップを一人の少女にすべて押し付けて無理やり成立させた、という印象である。神リメイクになり損ねた感が否めない。惜しいなぁ...

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