「仮面ライダークウガ」を観て

 先日、仮面ライダークウガを全話見終わった。私は世代的にアギト〜555はよく見たのだが、クウガは未履修であった。久しぶりにアギトを見直したくなりどうしようか考えていたところ、せっかくならこれを機にクウガをみてはどうだろうかと思い至って見始めた次第である。これはこれでなかなか興味深い内容であった。物語の基本構造は、グロンギと呼ばれる怪人が殺人を繰り返し、それをクウガこと五代雄介ともう一人の主人公というべき刑事の一条薫が中心となって倒し、事件を解決していくというものである。

 グロンギに関する設定は徐々に明かされていくのだが、ざっくりと説明しておきたい。かつて日本にはリントと呼ばれる種族がおり古代文明を築いていた。グロンギはリントを殺すゲームに興じる種族であったが、リントは非殺生を貫く種族でありグロンギに対抗する術を持たなかった。そこで現れたのが先代クウガであり、彼は全てのグロンギを封印することに成功した。それから年月が流れ現在、遺跡の発掘調査がきっかけで封印が解かれ、復活したグロンギたちはリントの末裔である人類(日本人?)をターゲットに殺人ゲームを開始したというわけである。

 グロンギたちは人間態と呼ばれる姿と怪人態と呼ばれる姿を変身して使い分けるのだが、この辺りの力はクウガの力と本質的には同じものであることが終盤で明らかになる。これは怪人の力と仮面ライダーの力は同質のものであるという石ノ森章太郎以来の伝統に即した設定である。最終盤では、クウガの力ととりわけグロンギの王であるダグバの同質性が強調されていくことになる。最終決戦に向かって、クウガはダグバに勝てるのか、そしてダグバに勝つほどの力を手に入れてもなおクウガは闇におちずにいられるのか、と言う点にフォーカスされていく。

 このダグバ戦は凄まじい戦いである。クウガは直前にアルティメットフォームという究極の力を手に入れており、ダグバもまた究極体へと姿を変え、戦闘が始まる。どんなド派手な戦闘が繰り広げられるのかと思いきや、これがただひたすら雪原で殴り合うだけなのである。吹雪のなかで延々と殴り合う二人。やがて両者ともダメージがかさんで変身を維持できなくなり人間態へ戻る。それでもなお殴り合い続ける二人。そして最後は五代が勝利し、ダグバは生き絶える。究極の力と姿を手に入れた最終決戦はひたすらに殴り合って最後は人間の姿に戻ってでも殴り合い続けて終わりという展開なのである。結局クウガは闇の力に飲まれたりすることはなく、無事に五代が旅に出るところで物語は幕を閉じる。ハッピーエンドだ。一応は。

 しかしこの決戦は、試合に勝って勝負に負けたというべきであろう。終盤で挿し込まれる印象的なエピソードがある。五代を慕う奈々というヒロインとの会話である。彼女は知人に酷い暴言を吐かれてしまい、殴ってやりたいと口にする。これに対し五代は、自分は拳を使うことで嫌な気持ちになった、間違っていると言葉で伝えることが大事だと諭す。それでも奈々はそれは綺麗事だと反発するが、五代はだからこそ現実にしたいんだ、暴力でしかやりあえないなんて悲しすぎるからと述べるのである。

 一方ダグバは、クウガとの殺し合いを切望していた。彼は殺そうと思えばいつでもクウガを殺すことができた。しかしダグバは殺すのが楽しいくらいクウガが強くなってから戦う、としてクウガを泳がせていたのである。クウガとの決戦も、ダグバにとっては強敵と命をかけて思う存分殺し合うことができる最高の時間だった。暴力に訴えることに対する前述の嫌悪のなかで戦うクウガと、自らの理想を最高の形で叶えることのできたダグバの対比は象徴的である。結局ダグバは殺し合いに殉じることができ、クウガは暴力で解決することしかできなかった。

 ところで、グロンギと同質の存在であることが示唆されたのはクウガだけではない。グロンギの幹部(厳密には違うけど)であるバルバはリントもグロンギと等しくなったと評する。これは直接的には封印という手段をとった先代クウガと異なりグロンギを倒しまくっている現クウガを指しているのかもしれないが、本質的にはかつてのリントが非殺生を貫いていたのに対し現代の人間社会には暴力が横行していることを指していると思われる。これを印象付けるのが第43話「現実」である。このエピソードは怪人ではない人間の犯罪者と刑事である一条の対決がメインであり、グロンギやクウガは空気である。クウガがグロンギを全て倒したとしても平和な世界がやってくるわけではない、人間が人間に暴力を振るう世界に戻るだけだという現実が描かれている。そしてこの話では明らかに、犯罪者が暴力によって危害を加えるということと、それを抑え込むための警察も暴力装置そのものであるということが同じ話として描かれている。リント=人間はもはや問題を解決するために暴力に訴えるのが当然となっており、その点においてグロンギと変わらないのである。

 ここまで考えると、最後に五代が旅に出て、子供たちとふれあうカットで終わるのは象徴的な意味があるだろう。グロンギを全て倒しても、世界から暴力がなくなるわけではない。実際に残されたのは、人間が人間に暴力を振るい続ける世界、それを抑止するために暴力に訴え続けなければならない世界、リントがグロンギと化した世界である。つまり我々が今住まうこの現実だ。クウガはグロンギとの物理的な戦闘においては勝利したかもしれないが、思想的な戦いにおいては敗北したのである(初めから敗北していたというべきかもしれない)。だからこそ、五代は旅に出る。綺麗事を現実にするために、子供たちの未来が暴力に満ちたものでなくするために、拳によらない新たな戦いを始めるのである。それは刑事として戦い続ける、すなわち暴力に訴え続けることを選んだ一条とは対照的である、とまで言い切っていいのかは自信がない。

 平成初期ライダーは一貫して単純な勧善懲悪の図式を破壊することを目指した。正義の仮面ライダーが悪の怪人を倒すという二項対立図式の脱構築である。そのような文脈にクウガを位置付けるならば、クウガが目指したものは暴力で怪人を打倒するという構図そのものへの挑戦だったのかもしれない。もしそうだとすれば、その試みは未だ未完のまま残されていると言えるだろう。


余談、というか今回のオチ

 4年前に初めてリアルで対面した頃からずっと思ってたんですけど、今回クウガを見て再度その思いを強くしましたね。こえだめさんってオダギリジョーでしょ。似てない?似てるよね?意識してるでしょ。僕がおかしいんかいね。両名ともガチ勢がいるのであんまり適当なこと言うと怒られそう。撤収撤収〜

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