二種類の終盤力について

 将棋指しを評価する際、序盤派/終盤派と分けるのは良くある話であろう。一般的に言って序盤派は研究家で、序盤でリードを得るのに長けており、終盤派は劣勢な局面を難しくしたり難解な局面から抜け出すのが上手いと言った感じであろうか。だが、この区分には問題があるように思われる。というのも、序盤派は終盤派より序盤知識が深く、終盤派は序盤派より終盤力が高いというような印象を与えてしまうからである。前者は正しいだろうか、後者はおそらく正しくない。

 というのも、終盤派は終盤が強ければそのまま勝ち切れるが、序盤派は終盤が弱ければ勝ち切れないからである。将棋は序盤と終盤では終盤の方が圧倒的に価値が高く、その正確性が勝ちに直結する度合いが高い。序盤の知識と終盤力の正確性で同程度の差しかないならば(もっともこの”程度”を定量的に評価するのは不可能ではあろうが)、序盤派と終盤派の勝ち負けがトントンになることはあり得ないだろう。序盤派は終盤派より終盤力が低いのではなく、終盤派とは異なる形で終盤力を発揮していると考えるべきである。

 ここで一度用語の整理をしておきたい。とりあえず、駒が本格的にぶつかり始めるまでが序盤、それから寄せに効く攻め駒が生まれるまでが中盤、寄せ合いに入ってからが終盤、詰むや詰まざるやの局面を最終盤としておきたい。ここで重要なのは、序盤派は、序盤の段階でどんな終盤戦にしたいかまで含めて序中盤の展開を組み立てているはずだということである。序盤派と言っても詰みまで研究している変化はそう多くはないであろうし、その研究通りに進むことは更に少ないだろう。おおよそこのくらいの展開ならあとは勝ち切れる、という段階で研究を打ち切るのが普通であろう。

 序盤派が研究の成果を発揮し勝利したとしよう。ここで序盤党が行ったことは、正確で豊富な序盤の知識を発見し記憶し思い出したというだけではない。終盤においては、序盤で得た利を勝ちに結びつける能力も発揮されたはずなのである。序盤派の終盤力は、いわば相手を自分のレールに乗せて、そのままゴールまで持っていく能力において優れている。

 一方で終盤派は、そのレールを爆破して木っ端みじんにする能力と、そのあと裸足で走って相手より先にゴールする能力(最終盤の能力)に長けている。何よりタチが悪いのは、この列車はゴールに近づくほど速度が増すために、小石が落ちているくらいで簡単に脱輪してしまうということである。すなわち、最終盤に近づくほど爆破テロは成功しやすい。この辺りが、終盤派の方が有利であるかのように言われやすい理由だろう。

 あまりにもざっくりとした言語化だが、将棋の終盤力には二つの種類がある。序盤に引いたレールから外れずにそこに相手を乗せきる能力と、そのレールから逃れる能力である。これらは区別されるべき能力だが、発揮される時期が同じであるために同じ終盤力という言葉で表現されている。そのため、一言で終盤力という言葉で表現される場合、それは大抵後者のことを意味していると考えられがちなのである。そのような見方から言えば、序盤派は終盤派より終盤力で劣っているというのは正しいだろう。というより、定義によってそう定まっているというべきである。

 しかし、終盤力という言葉の意味するところは実際にはもっと多様なのではないだろうか。今回は議論を簡便化するために二つの能力に分けたが、もっと多様である可能性は高い。そうだとすれば、序盤派と終盤派は序盤/終盤で分かれているというより、同じ終盤力という言葉で表現される異なる諸能力の間でどのようにステータスを振るかによって区別されていると考えるべきかもしれない。

 以上、序盤派/終盤派という区分に注目しながら、将棋の終盤力という言葉に含まれている多様な意味について考察してきた。これは余談だが、私は長い詰みや難解な寄せを読み切る能力ではなく、それ無しで勝てるように最終盤をデザインする能力こそが終盤力だと思っている。本稿の趣旨に即して言い直せば、終盤力の中でそれが最も重要だと思っている。終盤派という言葉がどれだけ適切なのか私には疑わしい。結局終盤が強くなければ将棋は勝てないのだ。序盤派だって終盤は強い。一言で終盤力という言葉で言い表されている能力の中に様々な別種の力があるということを示唆して本稿は締めたいと思う。

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