【感想】ハケンアニメ!を観て

はじめに


 先日映画「ハケンアニメ!」を観てきた。前々から気にはなっていたものの、なんとなく食指が動かなかった。アニメ制作現場を描く作品という意味ではSHIROBAKOという金字塔が既にある。そんな中でなぜ実写映画でアニメの話をするのか?という違和感があったし、悪く言えば、昨今のいわゆるアニメブームに乗っかってそれを食い物にしようとして作られたのではないかという警戒心も少しあった。それでも本作を観ることにした理由はいくつかあるのだが、直接的な原因は曽山一寿氏のツイートである。

https://twitter.com/soyamanga/status/1533292494238035969?s=21&t=q0Nkuc6Rl31f3RoEzk8BFQ

 子供の頃でんぢゃらすじーさんを読んで育った身としては曽山さんに対する信頼度は高い。という訳でフッ軽の極致とでもいうべき速さで映画館へ向かったのだった。

 結論から言えば非常に面白い映画だった。今年に入って劇場で観た映画はやや不完全燃焼気味なものが多かった中で、本作は久しぶりに心から面白い映画だったと言える。

アニメは誰のものか


 観終わって一番印象に残っているところは、中盤の入り口ごろ、王子監督が斎藤監督との対話中に司会者の質問に対してキレる箇所である。アニメ文化が市民権を得たという“一億総オタク化”の現状について問われた王子監督は、そんな一般受けの抽象的な存在のために作るんじゃない、深夜にアニメを観てリア充は今頃やりまくってんだろうな俺一生童貞なんだろうなって思いながらキャラでオナニーしてた昔の俺みたいな人に刺さるものを作るんだ、というようなことを言う。ここ刺さらなかった人は多分この映画向いてないと思う。
 これはまさに私が本作を観る前に本作に対して抱いていた危惧とパラレルである。アニメ文化はこの10年で飛躍的に大衆化し、アングラな空気感はかなり軽減された。クールジャパン、というような標語と共に国策的に価値あるものとされ、アニメを観ているだけで“人権”のない時代は過去のものとなった。このような事態はオタクの市民権が向上したという意味で肯定的に評価される一方で、オタク文化を何もわかっていないジジイとリア充どもに強奪されたという理解も根強い。アニメ名シーンランキングのような特番が放送されるたびに冷笑的なコメントがネットに溢れるのは象徴的である。
 王子監督の怒りがこのような文脈から噴出しているのは明らかだ。しかし一方で、まさにそのような時代の流れがあるからこそ本作のような映画が制作されヒットすることが可能になったのである。このジレンマをどう捉えようか!
 作中作である「運命戦線リデルライト(以下リデル)」と「サウンドバック奏の石(以下サバク)」の放送時間が土曜の夕方なのも示唆的である。作中でも指摘されるようにこの枠は子供向けであり、伝統的に深夜アニメのディープな世界とは隔絶した、よりライトで一般受けする可能性の高い枠と見做されてきた。王子監督の激白も、でもやってんの夕方アニメじゃん、で一蹴されかねない。もちろんだからこそヒロインを殺すべきかの葛藤が王子監督を襲い、キーポイントとなるのであるが。
 アニメは誰のものか。アニメを観る文化が大衆化した時代にあってオタク文化はどう生きていくのか。それはある種のメインカルチャーへと昇華していくのか、それとも食い物にされ消費され尽くされるものでしかないのか。我々が愛したもの、我々を救ったものは何だったのか。我々とは誰か。答えの出ない無数の問いが私の頭を支配した。アニメはジャンルではない。それは一般社会から特殊な形で分離されたある文化的領域とでもいうべき時空間の名前だったのだ。それは今日どうなっているのか、今後どうなっていくのか。10年後に振り返れば、今がターニングポイントだったということが分かるのかもしれない。

覇権とは何か


 本作のタイトルに忠実に記述すればハケンと片仮名で表記するべきであろうが、論じる上では一般語彙の覇権を用いる方が都合が良いであろう。本作においてシナリオ上の目標設定は巧妙にすりかえられている。本作は主人公斎藤瞳が憧れの監督王子千晴を超えるアニメを作るという夢を持ってアニメ業界に入ってくるところから始まる。斎藤監督はこの目標に対する強いこだわりを見せていたし、最後までそのスタンスは崩さなかった。しかし物語の中盤以降、目標としてのそれは後景へ退いていき、「サバク」を「リデル」を越える覇権アニメすることが大目標となる。これは王子監督が「リデル」を手がけているために接続されているが、本来この二つの目標は別個のものだ。もし仮にサバクがリデルを圧倒したとしても、それを以って斎藤瞳が王子千晴より優れた監督だと直ちに結論づけることができないのは明らかだ。
 ただ、この点については論点のすり替えというよりは成長の標と見るべきだろう。「王子監督を越えたい」は斎藤監督の個人的な願望なのに対して、「サバクを覇権アニメにしたい」は制作チーム全体の願いである。斎藤瞳が監督として成長する中で、チーム全体が一致団結していく様を描くという本作の主題から考えて、このような大目標の変遷は当然の帰結であるといえよう。このように解する場合、斎藤瞳の王子千晴を越えたいという目標はまだ未完で、未来への可能性として開かれているという形で本作は幕を閉じたのだと解釈したい。
 それにしても、アニメにおける覇権とは何であろうか。結局サバクはリデルを視聴率で越えることはできなかったが、円盤の初動ではリデルを抑えて一位となった。それを受けて行城が小躍りするシーンで本作は締められる。しかし、これをもってサバクがリデルに勝利したと解するのはオタクの一般感覚から乖離している気がする。そもそも覇権という概念を使う時、厳密な定義を意識している人などほとんどいないように思う。視聴率や円盤売り上げなどの数字に決定的な意味があると思っている人も少ないのではないか。圧倒的な数字の差があれば話は別である。しかし、どう考えてもサバクとリデルの間にそれほどの差があるとは思われない。もし現実にあのような状況があるとすれば、「今期はサバクとリデルが二大巨頭だった」とか、「今期は豊作だったな」とかで落ち着くのではないか。
 別に本作にはリアリティが足りないと批判しているわけではなく、覇権概念の扱いづらさを感じたというだけの話である。さらに言えば、一般大衆に受けて社会現象を巻き起こすということと、ネット掲示板で今季の覇権は何かを巡ってレスバが起こるのとでは質的に全く違うことが起きている筈だ。一口に覇権と言ってしまうことの困難さ。おそらくそれは前節で考えた論点とも関係するだろう。
 映画を観終わったあと本屋に向かい、原作を手に取ってパラパラと眺めた。すると、この点についてもかなり踏み込んだ記述がちらほらと見られた。さっそく購入したが、まだ読んでいないのでこの記事では原作については触れない。映画版に対する感想記事ということで一つ許していただきたい。

気になったところ


 行城は前半は嫌なやつ、という描写が多かったが、後半はもっぱら信頼できる仕事人という肯定的な描写になる。ここのところの描写上の“転回”がやや唐突だった感は否めない。斎藤監督の中で内心の変化があったことは分かるのだが、急にキレたという印象もあり、もう少し丁寧に描いてくれた方が少なくとも私にとっては観やすかった。
 それにしても柄本佑の演技はハマっててすごかった。ムカつくやつとしての演技も信頼できる奴としての演技も素晴らしかったし、その転換もスムーズだった。こういう飄々というか淡々というかした役は本当に上手い。
 王子監督と斎藤監督の絡みが中盤以降全くないのはやや寂しかったが、もちろんこれは仕方ないことだ。クリエイターとして、物語が煮詰まってくるにつれ自分の作品のことしか考えられなくなっていくのは本作の基本的な筋書きである。アニメ製作がチーム戦だというのと同様に、産みの苦しみは個人的な経験だという理解が本作の根底にはあると思う。そうである以上、終盤になるにつれ王子監督と斎藤監督の絡みが無くなっていくのは必然であった。とはいえ、序盤の二人の絡みが凄くワクワクしたものだっただけに、寂しさを感じざるを得なかったのは正直なところである。
 中村倫也の演技も本当に素晴らしかった。特に前述したキレるところ。王子監督ほどのイケメンがいくら叫ぼうが、でもお前イケメンじゃん本気出せばすぐモテるだろ俺らとは違うじゃんはいはいモテないアピ乙、となるのが関の山だ。実写映画で特にありがちなのは冴えない女の子キャラなのにめっちゃ美人やんけとか、非モテ男子キャラのくせにイケメンやんけとか、そういうところが気になって嘘くささが鼻についてしまうという事態である。そういう意味では、そのような嘘くささをほとんど感じなかった。おそらく中村倫也の演技が素晴らしかったからであろう。こいつなら確かに真っ暗な青春を過ごして深夜アニメに沼ってたかもしれんと思わされたのである。
 あと群野葵役の高野麻里佳。よくこんな役を引き受けたものだ。何かしら覚悟のようなものがないと出られないと思ったが、実際のところはどうだったのか非常に気になる。だがおそらく本当のところが本人の口から聞けることはないだろう。彼女が群野葵と同じようなプロであるならば確実に。
 王子と有科の関係とか、太陽くんの描写とか、本稿で触れられなかった局面は多い。人によっては、焦点が多すぎてまとまりがない、作品としてやや拡散しすぎだという評価を下すかもしれない。私もそのような評価は全く理のないことではないと思う。しかし、この点に関しては、むしろ本作の豊かさを示すものであると理解したい。
 

誰が観るか


 本作は誰が観るのかによって、観る者が自らにどのようなラベルを貼っているのかによって、大きく評価が変わるだろう。私は学生時代の一部を隠れアニオタとして過ごし、今日のアニメをめぐる状況に少し困惑している、そういうタイプのやや取り残され気味のオタクとして自己を認識している。一方で、私は動画を作る趣味もあり、クリエイターの端くれとしてのアイデンティティもある。斎藤監督や王子監督の創作論についても思うところは非常に大きかった。共感できるところ、ギクッとするところ、非常に多くの場面で感情を揺れ動かされた。お前ごときと本職のアニメ監督を同列に扱うなという正当なツッコミはここでは無視しておく。
 鑑賞は常に受取手側の用意を参照しつつ行われる。これまで観てきたものと見てきたものの相互作用の中に今観ている映画を位置付ける営みである。観る人の数だけ鑑賞の仕方があるのである。そのような性質が、本作はより強いように思われる。あなただけの覇権アニメがあり得るように、あなただけのハケンアニメ!があり得る。非常に豊かな作品であった。

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