今週の小話#8

シークバーはなぜ消える

 YouTubeをはじめ、ほとんどの動画配信サービスにはシークバーという機能がついている。動画を再生したときに下に表示される今どのあたりを再生しているのかを表しているアレである。大抵のサイトでは、画面をタップしたりカーソルを動かしたりすれば非表示になり、再度タップするとまた表示される。特に操作しなくても時間経過で非表示になるのが一般的である。シークバーが表示されている状態で何秒か放置すると消える。

 なぜ消える?シークバーなんで消えてしまうん?
 
タップすれば非表示になるんだから自動で非表示になる必要なくない?消したきゃ消すよ、自分で。

 とふと疑問に思ったものなのだが、まぁ表示されていない状態がデフォルトだからということなのだろう。非表示が本来のあるべき姿だから、操作がされなかったら自動でそこに戻る。ありそうな思想だ。

 設定とかは消すまで消えないやんけ
 歯車マーク的なアレをクリックしたら表示される、画面の明るさとか画質とか再生速度とか調節するアレはこっちサイドで操作するまで消えへんやんけ。シークバーよりよっぽど見づらいぞアレは出たままだったら。

 ようわからんね。


街と恐怖はどちらの方が大きいか

 先日夢を見た。玄関のドアから、家の中をジロジロと覗いてくる人物がいるのだ。当然ながら我が家の玄関はガラス張りなどではないので、なぜそれが分かったのかは夢だということで納得していただきたい。私は怒って彼にクレームをつけた。何用で我が家を覗くのか。

「街と恐怖はどちらが大きいと思いますか?」

 唐突で、ナンセンスで、それでいて少しポエティックな質問が飛んできた。怒りはどこかへと消えていった。いつの間にか、私たちは同じテーブルの斜向かいに座っている。彼は続けた。

「街の大きさは地球という上限のもとにありますが、恐怖はそうじゃない」

 詭弁だと思い、私はすぐに反論した。

「銀河連邦が成立したとして、太陽系全体が首都になるなんてのはありそうな話だろう」

 言いながら、若干論点をずらしてしまっていることには自覚的だ。いや、もとから論点なんてなかったのか?

「人間の想像力は無限です。恐怖の大きさには限りがない」

 彼はそう言いながら席を立ち、少しブラブラと揺れ歩いた。

「そもそも」

 私が口を開く。

「街の大きさと恐怖の大きさを定量的に比較することはできない。こんな質問は意味がない」

 私のその発言を聞くと、彼は驚いたような表情になった。

「そんな考え方もありますか」

 そう言った彼の表情はどこか寂しいような悲しいようにも見えた。話し合いはここで打ち切りとなった。夢はこの後も続いたが、その先は覚えていない。

 

気まずい電車

 先日電車に乗っていた時の話である。私は座ることができたが、車内は少し混んでおり、立っている人もちらほらといた。私の前にも、おそらく私と同年代くらいであろう若い女性の二人組が立っていた。やがて次の駅に着くと、私の左隣に座っていた人が下車した。空席となった私の左隣に女性の片割れが座る。この際、二人はどっちが座るかで少し言葉を交わしており、その様子から見ても友人であることは間違いなさそうだ。まぁだから何だという話であり、私は意識を聞いていたラジオの方へと戻した。

 しばらく経ってまた電車が止まる。私の右隣の人が下車しようと席を立った。この瞬間、私の脳内に電流が走る。位置取り的に、この空席に座るのは私の目の前にいる女性になるだろう。友達二人に挟まれるのはちょっと気まずい。この娘たちだって友人同士隣に座りたいものだろう。ならば、私が空いた右隣にスライドして、私のいたところに座ってもらうのがwinwinである。とはいえ、いきなり無言で私が席を移動するのはさすがに気持ち悪い。気を利かせてやった感が出ても恥ずかしいし、自分の座っていた席に座らせたがる変態だと思われるかもしれない。ならば一声かけようか。「こっち座りますか?」だめだ。全く解決していない。知らん人に声かける/かけられるストレスの方が大きくてloseloseになってそう。

 一瞬の逡巡。だがその間に彼女はもう座ってしまっていた。タイムアップだ。もうどうすることもできない。しかも本来なら別に友人同士に挟まれて気まずいなんてほんのちょっとそう感じるかどうか位のものでしかないのに、無駄に色々と考えてしまったせいでなんだかすごく気になってしまう。変な気の回し方をした挙句なにも生み出さずただ自分の首を絞めてしまった不思議な時間であった。


苦しんでいる他者と相対するということ

 苦しみを表明している人がいるとする。「こんなことがあって辛かった」「こんなことをされて悲しかった」そんな時、我々はどう相対するべきか。端的に言えば、彼/彼女の声を簒奪してはならないということである。「分かるよ」この言葉は救いではない。共感も理解もそこには必要ない。不要であるばかりか不誠実だ。その苦しみはその人の固有の経験なのであって、究極的には誰にも分からないことだ。その人自身のものを理解可能なものへ解体することによって、正確にはあたかもそうしたかのように見せることによって、その苦しみを不可視化してしまうだろう。

 だからと言って、私にはわからないことだと言って突き放してしまうのは論外である。苦しみを表明している人に対してそれは苦しみと呼ぶに値しないと言い切ってしまうことの暴力性に無頓着であってはならない。小学生の時に夏休みの宿題に苦しまされたとき、それはその後の人生で経験したどんな苦しみよりも劣ってなどいないのだ。苦しみは常にその人・その時・その環境に固有の経験なのであって、他者による評価を根源的に拒絶する。「甘えるな」この世で最も唾棄すべき言葉にちがいない。

 言うまでもなく、本人のためを思って、などというのは言い訳に過ぎない。まぁ別にやりたければそうすればいいが、他者に対してきわめて不誠実な行いだ。必要なのは理解や共感ではない。無理解や拒絶でもない。この領域に言葉を与えるのは難しいが、私は寄り添うとか共に立つという言葉を使うのが好きだ。もっといい表現があればそちらにするだろうが。とにかく、理解できないものであるということを受け入れたうえで、それでも理解しようとする態度である。誰しも苦しみを抱えている、という言いつくされた言葉を繰り返すべきか私にはわからない。ただ、苦しみを表明した人に対して、自分の態度が誠実であれるように意識できない人ではありたくないと、私はそう思う。

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