日埜直彦『日本近現代建築の歴史』
書誌情報
日埜直彦,2021,『日本近現代建築の歴史——明治維新から現代まで』講談
社.導入
日本近代建築史を扱う本の多くは1970年頃までを対象としており、歴史の全体像を把握することが困難な状況である。問い
法隆寺以降の1300年間とは異なり、明治維新以降の日本建築の急激な近代化はどのように成されたのだろうか?主張
日本建築の急激な近代化は、外的条件の持続的変化と近代化を促進する2つの異なる主体、そして近代化時間軸の分断によるものである。対抗説
理由A
第一に、建築を取り巻く外的条件の持続的変化が建築の保守性を押し退けたからである。ここでいう持続的変化とは、単発の出来事ではなく数十年単位のスケールで緩やかに起こる変化のことだ。それまでの日本建築とは全く異なる西洋式建築の導入によって「建築の素材、技術、施工組織、社会と文化の持続的変化」(日埜 2021: 25)が起こり、保守性が崩れていった。理由B
第二に、上からの近代化によって西洋式建築の体系的導入が行われ、下からの近代化がそれを受容していったからである。上からの近代化とは「国家によって推進されたトップダウンの近代化」(日埜 2021: 28)を指し、他方下からの近代化とは「市井のひとびとがその生活の場で具体化していったボトムアップの近代化」(日埜 2021: 28)を指す。これら2つの近代化は相互に関連しており、たとえば日本人建築家を育成すると同時に「西洋式建築のために必要な素材を生産する産業がはじまり、技術の習得とそれに見合った施工組織の形成が……進んだ」(日埜 2021: 29)ことによって下からの近代化の素地ができ、「生活改善運動が取り組んだ住宅の近代化」(日埜 2021: 30)を経て「現在の日本の戸建て住宅へと繋がっていく」(日埜 2021: 30)というふうにだ。理由C
第三に、国家的段階の解体後、新世代の建築家と日本の建築の一般的状況との間で分断が生じたからである。1970年頃を境に通史が途切れているのはその前後が歴史的に不連続であるからだと筆者は考えている。この分断を際立たせているのは「国家のための建築という重荷を背負わされた建築の状況とその解放」にあるとし、国家の主導性が強かった時代を国家的段階、それ以降をポスト国家的段階と呼んでいる。結論
このように、日本建築の急激な近代化は、外的条件の持続的変化と近代化を促進する2つの異なる主体、そして近代化時間軸の分断によるものである。重要文献
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