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愛知の高射砲陣地~見晴台と太佐山~

 高射砲部隊のはじまり

 高射砲は、anti-aircraft gun というように飛行機を撃ち落とすために開発がすすめられた大砲だ。日本で高射砲の必要性が認識されたのは、第1次世界大戦(1914~1918(大正3~大正7)年)の時だった。日英同盟により中国山東省青島ちんたおのドイツに対して参戦した日本軍は、偵察のため上空に飛来する1機の飛行機に悩まされた。当時はまだ専用の大砲がなく、野砲に仰角(砲口を空に向けること)をつけた台を製作して対抗したものの、撃ち落とすことはできなかった。
 大正時代は軍縮が叫ばれた時代で、軍は歩兵聯隊れんたいや騎兵聯隊、衛戍えいじゅ病院などを一部廃止した。代わりに世界大戦で新たに登場した飛行機、戦車、高射砲などの新兵器の部隊創設と兵器研究をすすめた。高射砲は、外国の高射砲を輸入し、国産化にむけて開発をすすめた。
 そして1925(大正14)年、高射砲第1聯隊が豊橋の旧第15師団野砲兵第
21聯隊跡地に新設される。日本最初の高射砲隊だった。この部隊は教育訓練及び動員の際の編成を行う部隊だった。その後、1928(昭和3)年に浜松に移駐した。
 作戦部隊としては、1941(昭和16)年7月下旬に臨時編成された要地地上防空部隊、名古屋防空隊が最初だった。<字数:2416文字>

 名古屋地区の地上防空部隊

 名古屋防空隊は、司令部を鶴舞公園の名古屋市公会堂に、北地区隊は名古屋逓信局屋上、南地区隊は築地税関屋上に配置された。高射砲陣地5か所、大砲はわずか16門。1944(昭和19)年頃には、およそ24か所の高射砲陣地、大砲約140門に増えた。それでも第2次世界大戦中のソ連の首都モスクワは1000門の高射砲で防衛していたので、非常に脆弱な守りだった。
 1941 年夏頃の仮想敵はソ連だったので、北方の空に対する守りだった。ところが同年12月8日に対米英との開戦に踏み切った日本は、南の空にも気を配る必要に迫られたのだ。1942(昭和17)年4月18日、アメリカ軍は、B25爆撃機16機により太平洋戦争で初めて日本本土を攻撃した。
 慌てた日本軍は、同年11月に地上防空部隊の改編を行ない、名古屋防空隊は、防空第15聯隊と改称され、教育部隊であった高射砲第1聯隊を名古屋北地区へ投入した。戦闘部隊である高射砲陣地の兵舎にて新人教育が行われたという。
 1944(昭和19)年11月、名古屋高射砲隊司部が編成されて名古屋市公会堂に配置され、一部が昭和塾堂に入った。そのため、防空第15聯隊から再び改編された高射砲第 124 聯隊本部は、東海市聚楽園の旅館に移動した。北地区の防空では、第125聯隊を編成して茶屋ケ坂に聯隊本部を置いた。12 月以降、終戦に至るまで名古屋は激しい空襲にあい、焼け野原となった。そのため、1945(昭和 20)年4月以降市街地の高射砲部隊の一部は、三重県宇治山田、桑名、富山県伏木、岐阜県各務原などへ移駐…名古屋から遠ざかっていった。

今に残る高射砲陣地跡

 1945(昭和20)年8月15日以降、残務整理の人員を残してそのほかの人は復員し郷里へ帰った。復員命令が出ていないのに帰った兵は、脱走扱いになって連れ戻されたという。進駐軍(GHQ)の命令により高射砲は廃棄されて、高射砲陣地は撤去された。
 私の母は6歳の時に終戦を迎えた。幼いながらも空襲警報が恐ろしく、撃墜された米軍機の乗組員の指が落ちているのを見たことがあると教えてくれたことがある。当時は名古屋市南区に住居があり、南区見晴町にあった笠寺高射砲陣地跡は、戦後都市計画公園用地(笠寺公園)となった。そこは、見晴台遺跡という弥生時代の遺跡であったため、公園整備に先立ち1964(昭和39)年から発掘調査が始められた。発掘調査は継続して行われたため、1973(昭和 48)年には、兵舎の屋根材(厚紙にアスファルトを塗布したもの)が出土した。その後も掘られた穴から高射砲陣地で使用した工具や電線などが出土したり、兵舎跡、風呂場跡、塹壕などが見つかったりした。1974年ごろ調査に参加していた人のなかに、戦争体験者(旧軍人)が参加していた。高射砲隊の観測兵だった池田陸介ろくすけ氏(元戦争遺跡研究会代表)らは、二度と戦争をしてはならないとの思いから、夏の発掘期間中、太平洋戦争についての学習会を行い、こうした高射砲陣地関連の出土品も弥生土器と同じようにたいせつな歴史の証人だと考え、保管された。
 名古屋市見晴台考古資料館では、弥生時代の土器や石器のほか、高射砲
陣地関連品も展示し、当時のできごとが紹介されている。ずいぶん前だが、私自身も弥生時代の土器等の発掘作業に参加したことがある。
 <上記写真:笠寺高射砲陣地跡:見晴台公園>

新たな高射砲陣地の発見

 つい最近のことだが、名古屋市の南にある東海市名和町にも高射砲陣地の跡が存在することを知った。太佐山たざやま高射砲陣地跡は、戦後長らく山林のなかに埋もれていたが、東海市が緑陽公園の計画に入った頃、地元に住んでいた池田陸介氏は計画図に高射砲陣地跡を入れるよう東海市長に陳情した。それから約 30年経ち、公園の造成が始まり2020(令和2)年・2021(令和3)年に試掘調査が実施され、その結果、高射砲陣地跡が良好な形で残されていることがわかった。この陣地は、1944(昭和19)年に構築された新設陣地で、現在でも高射砲を設置する砲床面は、6か所ともすべて同じレべルで保たれていた。太平洋戦争のさ中であるにも関わらず、土地の造成がしっかり行われていた。また、砲台跡だけでなく、指揮所跡、弾薬庫跡、中隊事務所跡、被服庫跡、炊事場跡、井戸跡、便所跡、新人教育を行った兵舎跡なども残り、高射砲陣地がどのようなものかを知る上で貴重な遺跡だとのことだ。

太佐山高射砲陣地跡(愛知県東海市名和町)


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