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時空を超えて「幻の愛知県博物館」へ

 高校3年間をダンス部でがんばった娘の最後の大会が愛知県芸術文化センターの大ホールで開催された。ずいぶん早く会場に着いてしまったのだが、10F にて「幻の愛知県博物館」が開催されていることを知った。

 江戸から明治に時代が移ると、徳川家康公が尾張藩主となる徳川義直のために造営した名古屋城は陸軍の兵舎となり、そのシンボルである金鯱は「無用の長物」となった。明治5年に東京の湯島聖堂で開催された日本で最初の博覧会の目玉となった金鯱は、翌年のウィーン開催をはじめとする各国の万国博覧会を巡る流浪の旅に出された。そんな中、地元財界の有志が金鯱復旧を求めて資金を出し合い、金鯱は天守閣に戻されることとなる。政府も「全国屈指の城」として永久保存を決め、明治26年に宮内省の管轄下となり、城は名古屋離宮となる。その後、昭和5年に名古屋市に下賜され、城郭として最初の国宝に指定され、一般公開されるも、昭和20年、米軍の空襲で天守は炎上し、金鯱も溶け落ちてしまったのだ。空襲の爆風で吹き飛ばされた金鯱の鱗や、溶けた金鯱の金を再利用して作られた丸八(名古屋の市章)がついた釜が展示されていた。

 「愛知県博物館」は明治16年、現在の大須商店街の一角で開館。5年前に民間の寄付で建てられた博物館を県営化した。国内外の最新の陶磁器や織物、古い書物、味噌や醤油、酒、織物、陶磁器、絵画、機械、動植物などの物産を展示し、人々に知識を与え、産業や技術の発展に寄与しようとした施設だった。敷地には能楽堂や美術館、動物園も備え、現在でいう「総合博物館」の機能も果たしていたと言われる。その後、明治政府の殖産興業政策に即し、明治44年にには「愛知県商品陳列館」と名称を変え、建物も西洋風の洋館を新調した。地元の文化に支えられた博物館の機能と西洋の最新建築、そして国内外から集めた最先端の展示が合体した、国内でも画期的な施設だったという。

 私が個人的に興味を持ったのは、上記の案内図の出版人として名前が載っている片野東四郎氏だ。永楽屋東四郎として、江戸時代から明治大正時代にかけての名古屋における代表的な版元で、葛飾北斎の絵手本『北斎漫画』を文化11年から明治11年にかけて出版したことが著名である。片野東四郎は名古屋の江戸時代末期の代表的な書店永楽屋の代々当主であり、5代目東四郎が衆議院議員を務めている。代々東四郎を名乗っておられるのだが、5代目の片野東四郎氏と6代目の片野東四郎氏、6代目の片野東四郎氏の夫人すず氏に私自身はたいへん感謝をしている。
 私は、今春3月末日まで社会福祉法人愛知育児院児童養護施設南山寮の施設長と理事を務めていた。明治19年創設の全国でもトップレベルで古い児童救済施設であるのだが、施設の歴史の中に愛知育児院への支援者として片野東四郎氏と片野すず氏が登場する。当時は県や市が施設の運営費を補助してくれるような制度は無かったので、仏教の信心の篤い方たちの寄附や喜捨により入所児童の生活が成り立っていた。片野夫妻も仏教者であり、様々な形での支援をしていただいた。片野東四郎氏は創設時からの支援者である。愛知育児院は当時、名古屋市の繁華街に近い所にあったが、日露戦争が勃発したことで、入所児童が100名を大きく超えてしまい、児童にとっては生活環境が悪くなってしまったため、現在地への施設の新築が計画された。そのために愛知育児院婦人部が発足され、1000名以上の仏教婦人が会員となり、片野すず氏は婦人部のトップを務める。南山寮の建設費の37%を婦人部が捻出していることは素晴らしい。

 娘のダンス大会のおかげで「幻の愛知県博物館」展を楽しむことができた。新たな学びの機会を間接的にくれた娘と、一緒に「博物館」を楽しんでくれた妻に感謝だ。

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