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子どもお断り社会?

 子どもたちが外で遊ぶ環境がどんどん減ってきている。街の中にある公園は、幼少のみぎりに私が遊んだ公園とはまるで違う。私が遊んだ公園は広かった…が、大人になってから訪れたら小さく感じた。公園の周りはぐるっと木々が植えてあり、昆虫採集をすることもできた。小学校から帰って公園に行くと近所の友だちが誰かしらして、メンツがそろえば毎日野球を、人数が少なければ陣地取りの遊びをした。富士山型のすべり台、普通のすべり台、うんてい、ブランコなどの遊具もあり、子どもたちの笑い声に満ちていた。
 
  現在、名古屋の街中にある公園はフェンスやネットで囲まれ、狭く、「野球・サッカー禁止!」の看板が掲げられている。幼児の子どもたちが遊べるような遊具はあり、お母さんが見守りながら遊ばせているが、私が子どもの頃のように小学生以上の子どもが集団で遊ぶ姿は見られない。そもそも大きな公園があったとしても集団で遊ぶことがあるだろうか。小学生高学年くらいの子どもたちが3~4人、小さな公園の隅っこで頭を寄せ合い、ゲームに興じている場面はよく見かけるのだが…。
 
 子どもたちが育つのは、家や学校だけではない。家と学校の間を埋める膨大な空間でも子どもたちは育ち、多くのことを学ぶのだ。仲間との絆や上下関係、集団で遊ぶことの楽しさだ。

 日本の子どもたちは平均して4~5時間遊びに時間を費やす。この時間はここ数十年間でほとんど変わっていないにもかかわらず、外遊びに費やす時間は大幅に減っている。1960年代は子どもたちは外遊びに2.7時間費やしていたが、最近では1時間にも満たない。
 
 外遊びの時間の減少は、自動車交通量の増加と関連している。自動車の交通量が増加したことで、子どもたちの外遊びの場所が自動車によって奪われてしまったからだ。日本の子どもたちは、世界の子どもたちに比べ、遊ぶ場所に恵まれていない。かつては自由に遊べる空間であった道路が自動車に奪われ、空き地や原っぱもなくなり、その一方でそれを補完するような遊び場がないからだ。海外では、キックボードやローラースケート、スケートボードで歩道を走ってはいる人をよく見かける。日本では、歩道という公共空間をスケートボードで走る行為自体が、反社会的に見られたり、実際に反社会的に捉えている住民もいる。
 
 一方、有料で遊べる場所は、日本にもたくさんある。遊園地をはじめ、スポーツ施設、職業体験施設、ボーリング場、カラオケ店、ゲームセンター、映画館、マンガ喫茶・・・最近ではショッピングセンター内で遊ぶ場所が増えている。しかし、街の中で子どもが遊べる空間は、基本的に無料であることが必要だ。子どもたちはお金をもっていない。お金を親からもらわなくてはならないとなった時点で、もうその空間に主体的に関わることができない。
 
 「自分の居場所」をつくることも、街で楽しく過ごす上での重要なポイントだ。ここでいう「自分の居場所」とは、「家でも学校でもなく、誰にも強要させることなく、自分の自発的な意思で、そこに行く、そこにいるような場所」であり、そのような場所を『サード・プレイス』と呼ぶ。前述した空き地や広場、原っぱ、あるいは子どもたちにとっての秘密基地のような場所、サードプレイスが消失してしまった。サード・プレイスとは、家(ファースト・プレイス)でも、学校(セカンド・プレイス)でもなく、その中間地点にあるような場所だ。なぜ、このサード・プレイスが重要なのか。それは立場や役割、責任からくる束縛から解放されて、自分自身を取り戻す機会を提供してくれる場所だからだ。子どもにとってのサードプレイスは、家や学校の様々なルールから解放されて、その結果、家族から独立して個人の自我を確立するうえでも重要な役割を果たしてきた。しかし、日本の街には、子どもたちが自然に集まってきてお互いと出会う場所がほとんどどこにもないのだ。

 SUUMOが2015年に実施した「近隣住民の騒音、何が一番気になる?」というアンケートの結果が、子どもたちのこの国での生きづらさを如実に表している。
 1位 子どもを叱りつける親の声 21.0%
 2位 子どもの騒がしい声 20.8%
 3位 子どもの泣き声 17.8%
 4位 ペットの鳴き声 16.3%
 5位 子どもの足音 16.0%

 ある方が、数年前、国内線の飛行機に乗っていたときのこと。着陸が近づき、飛行機の高度が徐々に下がってきた頃、どこかの座席で幼児がぐずり始め、次第に泣き声は大きくなって、一緒に乗っているお母さんと思われる人が焦りながら「よしよし、大丈夫、泣かないで」と子どもをなだめている声も聞こえてきた。やがて子どもの不機嫌はピークになり、泣き声がさらに高くなった。そのとき、どこからか、「うるさいっ! 早く静かにさせろ!」という大人の男性の怒鳴り声が響き渡ったというのだ。

 公共空間での子どもの声が、一体どうしてそこまで人の怒りを買うのか。怒る人の言い分は、たいてい共通していて、公共マナー遵守の義務をあげている。うるさい子どもはもとより、その子どもを黙らせない親は、その義務を果たしていないと言って責められる。公共マナーとは何ぞや。それは、見ず知らずの人が出たり入ったりする公共空間で、たまたま居合わせた他人どうしがそこで互いに気持ちよく安心して過ごせるよう、相手の存在を認め合い配慮し合うことをうたったルールあるいは契約のようなもの。公共の場での他人どうしは、互いに相手を邪魔しない、つまりそっと放っておくというのがマナーになるのだと思う。
 
 飛行機や電車など公共交通機関は、だれに対しても開かれてあるべきで、閉ざされてはならない。「みんな」の範囲は好き勝手に変えられず、そこで「子どもお断り」というのは、ありえない。

 日本では高齢化が進んでおり、高齢化率はなんと28%(2022年)を上回り、子どもたちを取り巻く状況はただでさえ厳しいのに、「子どもお断り社会」が加速化すれば、子どもたちが健やかに育つ環境はさらに悪化し、子どもたちの社会的精神的成長に大きな禍根を残すことになるだろう。

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