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愛知で育った梅原猛さん

 愛知県の知多半島にある名鉄電車の終点駅は内海うつみという。名鉄内海駅の駅から徒歩数分の場所に、日本で有名な哲学者:梅原猛(うめはら たけし)氏が暮らした家がある。

 実父は愛知県立第一中学校、第八高等学校を経て、梅原の出生当時は東北帝大の学生であった梅原半二。実母は、半二が下宿していた仙台の魚問屋の娘・石川千代。ともに学生であった実父母の結婚を梅原家、石川家が認めなかったため、私生児として誕生した。乳児期に実母を亡くし、生後1年9か月の時に知多半島の名士で、梅原一族の頭領である伯父夫婦(梅原半兵衛・俊)に引き取られて養子となった。江戸から昭和時代にかけて醸造業を営んだ「梅原家」。日本を代表する哲学者:梅原猛は、生まれて間もなく養子としてこの家で育てられた。少年時代をここ内海でのびのびと過ごし、後に日本文化・哲学の研究として名を馳せていく礎を築き上げていった。

 梅原氏は哲学だけでなく、様々な分野に関心をもって研究を続けて来られたが、『赤ちゃん学』という「赤ちゃんを研究する学問」にも造詣の深さを感じさせる。梅原氏は語る。
 「赤ちゃんほど、いいものはないです。赤ん坊は1〜3歳で人格の土台が形成されます。私の場合、赤ん坊の頃、父も母も結核で、伯父夫婦に預けられましたから、その時期、孤独に過ごしています。ですから、どこか人生観の根底に“孤独に生きる”というものがある。苦境の中でもなんとか生きなければならない、そういう生きるエネルギーは、1〜3歳のときに養われたのではないかという気がします。」

 梅原氏はご自身の経歴についても恥じることなく正直に語られた。
 「私は一中(現在の旭丘高等学校)を落ちて東海中(現在の東海高等学校)に入って、浪人して八高に入りました。私は幼いころから空想に耽る、夢の中の世界にいるような人間で、勉強をしなかった。それで一中落ちて、八高(現在の名古屋大学)も一年浪人です。」

 ご自身の戦争体験についても赤裸々に語りつつも、ご自分の人生を楽しんでいるように感じさせる。
 「私は軍隊に行き、空襲にもあいました。私の八高の卒業式のときに校舎が空襲で焼けて、卒業式ができなくなった。焼夷弾が落ちて、ゴロゴロと死体が道路に転がっていた。そういう時代を経験した人間にとっては、過去のことは夢うつつに思えます。自分の人生は、非常に哀れで悲惨なこともあったけれど、結構愉しいものだと感じます。」

 この日本は将来が心配なほど少子高齢化が加速しているが、梅原氏は次のように語っている。素晴らしい考え方だと正直感動した。
 「日本の文化は古い昔から高齢者を大事にしてきた文化です。その証拠は、日本で尊敬されている親鸞聖人は90歳まで生きました。当時、90歳まで生きるというのは、今でいえば115歳くらいになるのではないでしょうか。法然上人も80歳くらいまで生きました。長生きする人は偉いという考え方があったと思います。老人を大切にするという文化が日本の根底にあると思います。何かむずかしいことが生じると、隠居している老人に相談して"事"を丸く収めてもらう。いざ何か事が起こった場合は老人が仲裁役をする。それが日本の文化のよいところではないかと思います。小野小町(おののこまち 平安期の歌人)は美人でしたが、晩年その美貌が衰えて籠居(ろうきょ)しました。しかし、いざ"事"があると、80歳を過ぎてよぼよぼになった小町が現れて解決する。これは、日本の「老人を大切にする文化」を表しているのではないかと思います。高齢者は翁と呼ばれますが、その翁が日本の国を治めているというのが理想の社会と考えたのだと思います。」

 梅原猛氏が生前に語った言葉で私が大好きな言葉が2つある。

「自然と調和していく  動植物と仲良くする そういう文明に変わらないと人類の持続的発展はあり得ない」

「人生はただ向こうから与えられるものではない。自ら創ってゆくものである。自ら創ってゆくにはやはり三つの段階が必要なのだ。ラクダの人生とライオンの人生と小児の人生。いいかえれば忍耐の人生。勇気の人生。そして創造の人生である。」

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