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愛知一中予科練総決起事件~「嵐のあとに」~

 私の母校である南山大学の神言神学院チャペルにて「“愛知一中予科練総決起事件”  嵐のあとに ~ある少年と家族の記録~」と題した朗読会が開催され、母と一緒に参加させていただいた。私はキリスト教の信者ではないが、南山学園には中高大の10年間お世話になったので、チャペルに入ると南山学園の「人間の尊厳のために」という言葉を思い出し、厳粛な気持ちになる。

 朗読台本を制作したのは、馬場豊先生、私立南山国際高校・中学校で国語科の教員を務め、演劇部の顧問をされていた方だ。南山国際高校は今はもう存在しないが、かつて南山中学校・高校国際部の時代には私が通っていた男子部にあった。馬場豊先生とは初対面であったが、おそらく私の中学・高校時代に同じ敷地にいらっしゃったはずだという思いから勝手に親近感を持ってしまった。

 今回の朗読は、愛知一中(現在名古屋でもトップレベルの旭丘高校)の生徒で、世に言う「愛知一中海軍予科練総決起事件」の参加者の一人だった鈴木忠煕さんが主人公だ。鈴木忠煕さんは旧制中学に通う15歳の少年だった。特攻に志願して亡くなった5名のうちの一人、鈴木忠煕さん(昭和20年15歳で戦死)が家族に送った手紙を通じての家族との交流がテーマだった。

 総決起の1か月前にあたる昭和18年6月5日には「山本五十六元帥の国葬」が行われていた。山本五十六は、皇族・華族の出身ではない平民で戦前に国葬に付された唯一の人物だ。国民的英雄とされていた海軍大将の国葬は、戦時下を生きる人々に多大な影響を与えただろう。国葬は国家への特別な功労があった者に対して国費で実施される。ただ葬儀費用が多額の税金で賄われるというだけではない。誰がどのような理由で国葬に付されるのか。それには政治的意図が絡み、元帥の死を国がある方向性へと意味づけることになる。

 山本五十六元帥の国葬には、戦局が悪化する中で国民の戦意を高揚させる狙いがあった。総決起への影響について考えてみると、現に総決起が起こる直前の時局講演会では、愛知一中の野山忠幹校長(当時)が演説の中で山本五十六元帥の戦死に言及している。山本五十六元帥の戦死を利用して、旧制中学に通う少年たちに軍人として決起し、鬼畜米英に対する国の盾になることを半ば強要したのだった。さらに新聞やラジオも「山本元帥に続け」と叫ぶ中で、生徒の一人は「軍神の心を継ぎて雲染むる 屍と散らん若人われら」と歌を詠んでいた。校長や教諭から発奮を求められた生徒は異常な興奮状態に陥り、「お国のために潔く死にたい」と激烈な言葉が飛び、700名全員が志願を表明した。実際には教員や保護者の間でも議論があり、願書を出さなかったり、不合格になったりしたため、56名が入隊した。そのうち5名が特攻などで若く尊い命を落とすこととなった。

 鈴木忠煕さんは1943年10月に松山海軍航空隊(愛媛県)に入隊した。どんな人物だったのだろうか。弟の鈴木隆充さんが、2012年に戦争と平和の資料館「ピースあいち」(名古屋市名東区)に、兄・忠煕さんとその戦友たちから送られてきたハガキや、父・信保さんが残していた日記などを寄贈していた。忠煕さんからは1年2か月の間に約60通のハガキが届き、月に4.5通の頻度で比較的こまめに連絡をとっていたという。しかし、すべてのハガキに上官による「検閲済」の赤い判子が押されており、自由に書きたいことを書ける状況ではなかった。

 朗読劇でスクリーンに映し出された忠煕さんのハガキを見て、美しい筆跡と15歳だとは思えないほど家族への愛に満ちた内容に驚いた。あるハガキの文章は、配属先の穏やかな田舎の風景や気丈に訓練に励む様子が目に浮かぶようだった。当時8歳だった隆充さんに充てたハガキには丁寧に読み仮名がふられており、忠煕さんの優しい人柄が伝わってくる。「隆ちゃんお元気ですか。寒くなりましたが寒さに負けず張切って下さい。もうすぐ正月ですね。冬休みもすぐやってきますね。毎日凧揚げや独楽まわしに忙しいでせう」。

 元々愛知一中では、上級諸学校を受験する者が数多くいた。ところが、総決起集会では「上級学校への進学を希望するのは国家より自己を優先することだ」という考え方が口々に語られ、生徒たちのエリート意識を抉った。)本来なら国に貢献するとしても様々な道があるはずなのに、総決起集会が起こった背景には「一兵卒で死ぬことが潔い」という刷り込みがあった。

 隆充さんは志願時の忠煕さんの心情について、「とても純粋な気持ちで、一途に『御国のために』と思っていた」と振り返る。忠煕さんの駐屯地にいつか送るつもりで書き続けていた父・信保さんの日記には「(入隊を知った時は)家族中が感激して、万歳を唱えた。ついに軍人家族になれた」と記されている。知人からは祝福のハガキが届き、近所では忠煕さんの志願を称える演劇まで行われた。そのような状況下で、「親として大事な息子を行かせたくない」という当然の本音を公言できなかったもどかしさが想像される。

 忠煕さんは1944年3月に名古屋への数日間の帰省を許された。隆充さんは「友達が家に来る、先生の所に行くなど忙しくしていた。この帰省は最後の別れの挨拶として許されたんじゃないか」と語る。この帰省の3か月後から、送られてくるハガキには「面会絶対禁止」の赤い判子が押されるようになり、実際に家族と過ごす最後の時間となった。

 防衛研究所図書館保管の「出水部隊陸攻隊・戦時日記」に忠煕さんの最期が記載されている。海軍航空隊出水基地は1937年から建設準備が進められ、1940年に飛行場が完成した。当初は日中戦争の勃発を背景に、搭乗員の大量養成が目的とされていた。1943年に練習部隊が設置され、海軍飛行予科練習生や学徒動員された予備学生らに対して飛行訓練が施された。しかし、1945年2月には戦局のひっ迫を理由に実戦基地に転用されることとなり、3月から6月にかけて特攻隊の出撃が十数回行われた。

 1945年5月27日深夜、忠煕さんは偵察員として「雷一式ト百三十三」板倉機に搭乗し、海軍航空隊出水基地から飛び立った。28日の2時40分、「片舷飛行中」と発信があり、2時50分に連絡が途絶し「未帰還」となった。出水特攻碑公園(鹿児島県出水市)には幾つかの碑が建てられており、その中に「鎮魂 殉国之英霊」と刻まれた慰霊碑がある。このような慰霊碑や戦争遺跡は、行政だけでなく市民の活動によって保存・管理されており、平和教育に加えて地域の観光資源としても活用されている。たくさんの戦死者の名前が連なる中に鈴木忠煕さんの名前が刻まれている

 後に、両親は「戦死広報写」一枚だけが入った遺骨箱を受け取った。その紙片には「昭和二十年五月二十八日南西諸島方面ニ於テ戦死」とだけ記されていた。

 現在の旭丘高校と言えば、愛知県でもトップレベルの進学校である。それは愛知一中時代から変わらない。そんな愛知一中の教師でさえ、戦争となれば「未来の日本を担う教育」よりも「お国のために若い命を捨てる覚悟を持つこと」を優先させた。戦争が何よりの恐ろしさは、人々の思考を狂わせ、正常な判断をできなくしてしまうことなのだろう。

 今回の朗読会には、母と一緒に参加した。昭和14年1月生まれの母は、鈴木忠煕さんが亡くなったときは6歳だった。会場には目にハンカチをあてながら朗読に耳を傾ける方たちがたくさんいらっしゃった。テレビの中ではない、映画の中ではない、「本物の戦争」を目の当たりにし、恐怖や悲惨さを自ら体感した世代が減っていく。折しも朗読会が開催されたのは、沖縄がアメリカ軍によって占領された日だ。

 今朝の新聞には、昨日沖縄で開催された「沖縄全戦没者追悼式」での宮古高校3年の仲間さんの朗読、玉城デニー知事の平和宣言が載っている。沖縄県民としての怒りと慟哭に満ちている。岸田首相のあいさつ文は…おそらく本人の言葉ではないだろうと思わせるありきたりの文章だ。

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