オリンピックの歴史③ 近代オリンピックの父と日本オリンピックの父
クーベルタンと嘉納治五郎
クーベルタンのオリンピックへの思い
1863年、クーベルタンは、パリで生まれた。生家は、祖父がナポレオンの高官も務めたフランス貴族という名家だった。少年時代のクーベルタンは、古代ギリシャ・ローマ文明に興味を抱いていた。その後、クーベルタンは、イギリスの中等教育に興味をもち、20歳のときにイギリスのパブリックスクールを訪問した。このとき、スポーツが青少年の教育に重要な役割を果たしていることを知り、深い感銘を覚えたという。人の成長には肉体と精神の調和が重要だと考えた彼は、やがて、オリンピックを復活させてスポーツによる教育を確立しようと志すようになった。
その後、近代オリンピックが誕生することになるのだ。
クーベルタンは、オリンピックを現代に復活させることで、スポーツによる教育改革を世界に広め、同時に世界の平和に貢献することを目指した。彼のこの理念は「オリンピズム」と呼ばれている。「オリンピズム」は、いわばクーベルタンの鋭い時代感覚と古代ギリシャに関する深い教養、スポーツの教育的な役割への注目、そして民衆のオリンピア遺跡への関心が一つになって誕生したものだ。
クーベルタンの信念は、「スポーツとは若者にとって、身体の鍛錬だけでなく精神の発達にも欠かせないものであり、国際的なスポーツ競技会が国境を越えた友好に役立つ」というものだった。現在のオリンピックになくてはならないメダルの授与を提案したのもクーベルタンだとのことだ。
彼は、第1回の近代オリンピックに向けて、選手たちの励みとなるメダルの授与を考えた。
1896年の第1回アテネ大会では、優勝者に銀メダルとオリーブの小校で編んだ冠と賞状が、2位に銅メダルと月桂樹の小枝で編んだ冠と賞状が贈られた。クーベルタンはIOC会長を約30年にわたって務めるが、1925(大正14)年を最後に辞任し、IOCを退いた。
その後は1937(昭和12)年に74年の生涯を終えるまで、オリンピック・ムーブメントを推進し、彼ならではの立場で教育改革の必要性を国際社会に向けて訴え続けた。彼が生涯にわたって提唱し続けた教育改革への思いは、スポーツや体育のみにとどまらず、歴史、芸術、心理学、道徳などの分野にまで広がっていったのだった。
日本がオリンピックに初めて参加した 1912(明治45)年の第5回ストックホルム大会で、クーベルタンは日本の選手団長を務めていた嘉納治五郎と出会った。同じ志をもつことが分かった二人はたちまち意気投合し、互いに良き理解者になった。それ以来、嘉納はクーベルタンと力を合わせ、IOC委員としてオリンピックの普及に力を尽くした。
クーベルタンは日本に宛てたメッセージの中で、1940(昭和 15)年第12回東京大会についても触れている。そこには、「東京でオリンピックが開催されることで、ヨーロッパ文化の基礎であるヘレニズムが、アジアの洗練された文化・芸術と混じり合うことが大事だ。」と書かれている。
クーベルタンは、「オリンピックの理念は時代とともに変化しなければならない。」とも主張していたことから、東京大会を開催することで、世界に日本の文化が披露されることを期待していたのだ。