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「子育て」が「罰」の国:日本 その2

 日本社会で「子育て罰」が出現してきた背景は何だろうか。1960年代以降、子育てにおける「自己責任」が強調され、親が子どもの教育費を負担するのは当たり前とする見方が形成され、「親負担ル-ル」ができあがった。さらに、よい子に育てなければならないといった「理想の子どもイデオロギ-」によって親(特に母親)を追い詰めてきた。「子どものため」と頑張りすぎてしまう親たちの努力に、社会も政治もタダ乗りして「子育て罰」を強いてきた。「子育て罰」社会では子どもに対する投資や消費が「ノルマ」と捉えられ、次第に人々の間に子ども嫌いや子ども排除といった感情が生じ、子どもを産み、育てることをリスクと捉え、それを避ける傾向が現れてきたのだ。日本社会から「子育て罰」をなくすには大人自身が「自立」や「効率」といった基準で人間を捉える見方を改めるべきで、大人同士が互いの弱さを認め、助け合うことのできる社会を実現できれば、その社会で生きていく子どもに対する見方にも変化が生じるのだろうが…。

 日本では最低限の生活が十分に保障されていない子育て家庭の実態の把握が不十分で、稼げば稼ぐほど国からの支援が切られてしまう状況にあり、結果、社会の分断が深まっている。制度や社会構造が社会的排除や孤立、分断を生み出しているにもかかわらず、そこはあまり議論されないまま、孤立や貧困の問題や解決方法が個人化され、個人の努力や頑張りばかりが評価され、心理的に余裕のない状態を生み出しているといった指摘は、日本の「子育て罰」社会の問題構造を捉える上で重要な指摘である。政府の再分配によって所得にかかわらず子育て家庭のすべてを対象とした支援策を具体的に講じることができれば、社会が子育てを応援してくれているという実感や意識が人々の中に生まれ、社会全体の子育てに対する意識も変わる可能性があるのではないだろうか。 日本から「子育て罰」をなくすためのステップとして、①少子化対策の失敗原因を構造的に捉え、②政治や行政の女性と子どもへの公的投資や支援を軽視した、古く、誤った価値観を正し、③男性優位の政治・行政による失敗を隠蔽せず、④子どもと家族の幸せが最優先という価値観を共有することが示されている。「親子にやさしい日本」となるための子ども・家族対策としては、「子ども基本法」の制定や「子ども給付の総合パッケージ化」が提示されており、これらを実行する上で財源確保についての与野党間の合意形成が必要と述べている。「子育て罰」をなくせるか否かは、子ども、親、大人のために、あたたかい日本社会をつくろうとする一人一人の「声」と「投票」にかかっており、そうした社会の実現への期待感は存在するのだが、「子育て罰」を生み出してきた日本社会のありようをどうにかして変えないと実現は難しい。

 「子ども」と「女性」に対する歴史的な見方が明治の頃と現代ではずいぶん異なる。明治初期の日本は子どもに優しい社会だったが、それが今日「子育て罰」社会になってしまったと説明する。女性についても近代以前は社会的活動の主体であってかなり独立性を有していたが、近代以降、近代学校制度の発展と相まって、その役割は家庭内での母親・主婦へと縮小されたと捉えている。明治日本の社会は子どもにやさしい社会だった、近代以前の女性は独立性を有していたという見方もある。 19世紀末(幕末や明治初期)、来日した多くの外国人が、日本の子育ての様子を記録し、日本人の子育てを絶賛している。

 例えば、たった2例しかしめすことができないが、大森貝塚を発見したアメリカ人のモースは、「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。日本人の母親程、辛抱強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない。」  
 イギリスの女性探検家イザベラ・バードは、「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。英国の母親たちが、子どもを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。」と日本の子育てが大絶賛されていた。
 しかしながら、それから150年経った現在は、ユニセフに調査によると、日本の子どもの精神的幸福度(生活満足度、自殺率)では38カ国中37位と先進国として恥ずかしい低迷ぶりだ。児童虐待相談対応件数は平成2年からの33年間で、年間1,100件から21万9千件と恐ろしいほどの増加率だ。しかも、子どもの数は激減している中に会ってだ。

 令和5年に厚生労働省から「子ども庁」が独立した。「こども政策の新たな推進体制に関する基本方針~こどもまんなか社会を目指すこども庁の創設~」が議論され、子どもの権利を保障し、誰一人取り残さず、健やかな成長を社会全体で後押しするための司令塔的役割としての庁だったはずが、蓋を開けてみたら「こども家庭庁」という名称になった。
 「子どもは親の所有物」という考えが根強く残るこの国で、子ども行政に「家庭」という概念がねじ込まれることが、子どもたちにとってどれほど「最悪」なことかというのは容易に想像できる政治家や官僚はいなかったのだろうか。これでは、「子育て罰」社会をなくすための方策にはなり得ないと感じるのは私だけか。

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