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大統領継承順位第3位となった日系二世がいた ~日系アメリカ人の戦争~

 太平洋戦争では、アメリカに住む日系人が偏見や差別をされ続けた。今回はマイノリティとして戦争に翻弄された日系人について書いてみる。その調査の過程で、日系二世のイノウエ氏が大統領継承順位第3位になったと初めて知った。<字数:3715文字> 
(上記写真:ケネディ大統領とダニエル・イノウエ氏)

 1930年代。世界は深刻な経済恐慌の時代へと突入し、国際社会間の緊張が高まっていった。多くの国が領土拡張と資源確保のために争う中、1939年9月3日、ナチス党が台頭し強引に領土拡大を進めるドイツに対し、イギリスとフランスが宣戦布告し、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まる。
 中国と戦争状態にあった日本は日独伊三国同盟を締結し、中国を支援するアメリカ・イギリスとの対立を深めていった。日本は東南アジア諸国への侵攻を進める南方作戦にアメリカ軍が介入してくることを危惧し、米太平洋艦隊の基地であったハワイの真珠湾を奇襲攻撃することを計画。1941年12月7日の朝(ハワイ時間)、ハワイ近海に接近した6隻の日本海軍空母から爆撃機、雷撃機、戦闘機を発進させ、真珠湾に停泊していた艦船と周辺の米軍飛行場などを次々と破壊した。この真珠湾攻撃によって、日本とアメリカは太平洋戦争に突入した。
 当時のハワイは、人口の約4割を日系人が占めていた。社会的にも経済的にもハワイで重要な役割を担い。一市民として平和な生活を送っていた日系人だったが、たった一夜にして敵国民として憎しみと疑いの目を向けられることになった。


 真珠湾攻撃によって、ハワイだけでなく、当時アメリカ本土にいた日系人も、アメリカの「敵」とみなされるようになる。日本国籍を持つ一世だけでなく、アメリカで生まれ育ち、アメリカの市民権(国籍)を持つ二世までもが「敵性外国人」として扱われ、人種差別の対象となったのだ。
 1942年2月、ローズベルト大統領は「国防上必要がある場合に強制的に『外国人」を隔離する」ことを承認する行政命令9066号に署名した。これにより西海岸地域で暮らしていた約12万人の日系人は、ただちに立ち退くことを言い渡されることとなる。立ち退きのために与えられた準備期間は短く、スーツケースやかばんに最低限の荷物を詰めただけの状態で、近隣の競馬場などに設置された仮収容所に一時的に収容された日系人は、その後、人里離れた内陸部の強制収容所へと移送された。多くの日系人が、土地や家、車などの財産を放棄したり、二束三文で売却したりせざるを得なかったという。
収容所は、砂漠のなかのヒラ・リバー、湿地帯のジェローム、そして極寒のハート・マウンテンのように、自然環境の厳しいところもあった。収容所の簡素なバラック小屋には隙間風が吹き、有刺鉄線で外部と隔てられ、銃を持った警備員によって常に監視される生活を送ることになる。日系人が強制収容された一方で、同様に「敵性外国人」となったドイツ人とイタリア人については、危険視された一部の人々が逮捕・拘留されただけだった。これはアメリカ本土での立ち退きが、必ずしも「軍事上の必要性」によるものではなく、人種差別によるものであったことを証明している。
 同様の強制収容は、アメリカだけでなく、カナダやオーストラリアでも行われ、また、中南米でも日系人が拘束・収容されたり、メキシコやペルーからアメリカへ強制連行されたりした。

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