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ヤマトタケルと弟橘媛

 昭憲皇太后は明治天皇の皇后であり、お二人は明治神宮のご祭神になっている。初めて洋装での写真を撮影された皇后陛下であり、殊に「女子教育の奨励」と「社会福祉等への慈善の事業」については、きわめて大きな役割を果たされた方だ。お茶の水の東京女子師範学校の設立の際には、多額のお手許金を下賜され、また開校式にも行啓され。とりわけ日本赤十字社の設立と経営に尽くされ、赤十字国際委員会に寄附された「昭憲皇太后基(Empress
Shoken Fund)」は、赤十字の平時における救護活動の先例となり、いまでも世界各国の赤十字助成のために活用され、今日までその恩恵に浴した国は、170ヶ国におよんでいる。昭憲皇太后は大正3年4月11日、明治天皇のあとを追われるかのごとく崩御され、伏見桃山東陵に埋葬された。生涯に3万首を超える和歌を詠み、その一部が『昭憲皇太后御集』として伝わっている。

 天皇を守る女性たちの覚悟とは、いったいどういったものだったのか。昭憲皇太后に仕えた女官たちは、景行天皇の皇子ヤマトタケルの妃である弟橘媛おとたちばなひめに関する歌を詠んでいる。
 弟橘媛とは、ヤマトタケルの東国攻めに従い、相模から上総に渡るとき、馳水はしりみずの海が荒れて船が進めなくなったため、海神の怒りを鎮めようと、ヤマトタケルの身代わりとなって海に身を投じ、船を進めさせたとされる伝承上の女性だ。このとき詠まれたという「さねさし 相模のか小野に 燃ゆる火の 火中ほなかに立ちて 問ひし君はも」(かつて燃え盛る炎の中で、私の身を案じて声をかけてくれたあなたの愛情を、私は決して忘れません)という歌は、弟橘媛の名を後世に伝える一首となった。

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