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「ゆずり葉」の木を見上げてみよう

 『ゆずり葉』というステキな詩に出逢った。この詩は、河井酔茗という詩人の作品。河井翠明は1874(明治7)年に大阪で生まれた。詩集に『無限弓』『灯影』などがあり、創作のかたわら雑誌「少年文庫」の詩欄を担当、後に女性時代社を起こして「女性時代」を発行。口語自由詩や散文詩を推奨して北原白秋や島木赤彦など、多くの詩人を育て、私が生まれる前年、1965年に亡くなっている。

ゆずり葉

子供たちよ。
これは譲り葉の木です。
この譲り葉は
新しい葉が出来ると
入れ代わってふるい葉が落ちてしまふのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちを譲って__。

子供たちよ。
お前たちは何を欲しがらないでも
凡てのものがお前たちに譲られるのです。
太陽の廻るかぎり
譲られるものは絶えません。

輝ける大都会も
そつくりお前たちが譲りうけるのです。
読み切れないほどの書物も
みんなお前たちの手に受け取るのです。

幸福なる子供たちよ
お前の手はまだ小さいけれど__。
世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちに譲ってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを
一生懸命造っています。

今、お前たちは気が附かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑ってゐる間に気が附いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度譲り葉の下に立って
譲り葉を見る時が来るでせう。

 「ゆずり葉」という詩を鑑賞してみて、教育者としての資質を持った素晴らしい人だということが伝わってきた。大人たちは、子どもたちのために「すべてを、ゆずる」と河井醉茗は詩の中で語っているが、今を生きる大人の中で、河井醉茗のような思いを抱いて暮らしている者はどれだけいるのだろうか。素晴らしいもの、美しいもの、かけがえのない大切なものを、未来に伝えてゆくという発想が、現代社会にはそもそもないように感じられて仕方がない。

 親が幼い子どもたちに語りかける、一言一言が心に沁みる。子どもたちに素晴らしい宝を譲り渡し、その宝を生かしながらよき人生を送り、世の人々をも幸せにしてほしいとの親の切なる思いがこの詩には込められている。
これは決して親から子へという命のバトンタッチに限ったことではなく、教師から生徒へ、上司から部下へ、先輩から後輩へと様々な捉え方ができる。今を生きている私たちも前の世代から大切なものを譲り渡されて、このかけがえのない人生を歩いていることを思うと、受け取った宝をどのように活かすのかという別の視点も生まれるのだ。自分が譲り受けたものをいかに育んでいくのか。この詩を何度も繰り返し読み、味わう中で、自身の心と向き合ってみる必要があるのではないだろうか。

 この詩が教えてくれるのは、私たち自身ができるだけ早いうちに「いのちあるもの、よいもの、美しいもの」に気づく心の習慣を身につけることの大切さだと思う。それは決して特別なことではなく、息ができる、食事ができる、働く職場がある、家族や友だちが共にいてくれる、夜眠るベッドがあるというような、ごく当たり前と思える日常の中にこそあるものなんだろう。ちっぽけかもしれないけど、素晴らしい宝があることに気づき、その一つひとつに感謝することが大切だとこの詩は訴えている。

 私たちの人生の一瞬一瞬が奇跡の連続であり、当たり前のことなど何一つない、私たちの人生は無数の奇跡の上に築かれているということに気づくことができるかどうかだ。その気づきを得た時、目の前には豊かな人生が開けてくるのではないだろうか。私たちに大人に課せられた役割は、目の前の小さな出来事を大切に味わい、そこに意味を見出しながら、人間的な成長を遂げていくこと。そして、感謝と喜びに満ちたその生き方を子どもたちに受け渡すことができたとしたら幸せなのではないだろうか。

 世の中の情報を見ていると、戦争、人権侵害、汚職、地球温暖化など明るい未来を描けない暗いニュースばかりで暗澹たる気持ちになることが多い。しかしながら、私たちは河井翠明の詩「ゆずり葉」を思い出し、時には「ゆずり葉」の木を見上げて、未来の子どもたちがはつらつと生きる姿を思い描くことが大切なのだ。そのことを、私が生まれる前年にこの世を去った河井翠明が教えてくれている。大切なバトンを渡されたのかもしれない。

私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。