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障がい者へのマイクロアグレッション

 1948(昭和23)年に国連で採択された「世界人権宣言」は、以下の条文で始まる。

第1条 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利  
   とについて平等である。
第2条 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意
   見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに
   類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げ
   るすべての権利と自由とを享有することができる。

 世界人権宣言は法としての効力がないため、国連が1966年に国際人権規約として採択した。そして2006年、障害者権利条約が国連で採択された。この条約を策定するに際し、世界中の障がい者団体が「Nothing about us without us! (わたしたちのことを私たちに抜きに決めないで!)」というスローガンに基づき、草の根の運動を続けた結果、条約の採択に至った。

 しかしながら、障がいを抱えた人の多くへの差別や合理的配慮の不提供が明らかになっている。それは学校や職場だけでなく、交通機関や飲食店などの身近な生活の場所で起こっている。
■ 障がいを理由に小学校への保護者の付き添いを求められた
■ 個別の配慮をお願いしても特別扱いはできないと言われた
■ 職場で無視や排除などのハラスメントを受けた
■ 手話通訳者の派遣を断られた
■ 健常者と同じように働かないと給料を払えないと言われた
■ 飲食店等での車椅子での入店を拒否された
■ バスやタクシーの乗車を拒否された ・・・など、ほんの一例である。

 実際に聴覚に障がいのある方へのマイクロアグレッションの事例をいくつか例示してみる。
1.「かわいそうね〜」
 個人病院の受付で「聞こえないので、順番が来たら手で合図してほしい」などの要望を事前に伝えると、受付の方から「あら〜、聞こえないの? かわいそうね〜。」と言われた経験がある。受付の方にに悪意はなく、単に聞こえないことに同情してくれた言葉なのだろう。社会の中で障がいへの理解は少しずつ進んでいるようだが、『障がい者=かわいそう』とか『障がい者=不幸』のレッテル張りはまだまだ根強い。

2.「もう少し障がい者らしく振る舞った方が良いんじゃない?」
 同じ受付で1の言葉の後に「障がい者らしく健気に振る舞う方が得策だよ」と続いた。このような私の言動が社会では「生意気な障がい者」だと思われてしまうことに対する警告だったように思う。障がい者は社会的に立場が弱いのだから、低姿勢に振る舞いなさいという意味なのだろう。「もう少し障がい者らしく振る舞った方が良いんじゃない?」という言葉も、一見悪意はないアドバイスのように思えるが、障害者に対するアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)やマイクロアグレッション(ちくちく言葉)が垣間見えた瞬間だった。『障がい者らしい障がい者』ってなんだろう。また、時々、誉め言葉のつもりで「障がい者に見えない」と言う方もいるが、この言葉も「障がい者」像を勝手に決めつけているだけだ。

3.「聴覚障がい者ゆえ、お聞き苦しいところはあるかもしれませんが」
 ある講演会の時、講演前に司会者が来場者に伝えていた言葉だ。これも悪意ある言葉ではないと推測する。司会者は私には伝わらないと思いこっそりと言ったつもりのようだが、来場者に聴覚障害のある方がいた関係で手話通訳者が会場にいたため、手話通訳を見る形で上記の言葉が私に伝わってしまった。第三者から上記のような言葉を勝手に伝えられて気持ちの良い思いをする聴覚障害者はいない。 (以上:https://universal-manners.jp/より)

 三重県人権センターが発行している「障がい者の人権」という冊子には、障がいがある人なら一度は経験している「マイクロアグレッション」を以下のように例示している。

①「わたしにはできない」「あなたは選ばれている」と言う
 例えば、「あなたはすごい。わたしにはできない」と障がい児を育てている家族に言ったり、「困難は乗り越えられる人にしか与えられない。あなたは選ばれた人だ」と本人に言ったりする。

②「障がいなの?見えないね」「普通に見えるよ」と言う
 例えば、内臓に疾患があったり、ある一定の状況に置かれないと症状が現れなかったりする場合がある。
 障がいといえば車いす、など見てわかるような状態の場合と、見えづらいものも多々ある。
 外見では分からないだけで、社会的な制限・抑圧を受けている人がいる。

③「いつか治る」「早く治るといいね」と言う
 障がい児の幼少期などに言われることが多い言葉のひとつだ。
 正常が何よりもよいこどという考え方は、そもそも「障がい」はどこにあるかということを問い直さないといけない。

④ 大人なのに子ども扱いをする
 服売り場に服を買いたいと思っている車いすの人が介助の人と行ったとき、店員はなぜか介助の人にしか話しかけないということが度々起きる。
 障がいがある人=決定権がないと周りが勝手に判断する。

⑤ 「障がい=かわいそう」という決めつけ
 街や電車の中で、障がいがある人がいた場合、言葉に出して何か言わなくても、視線や表情で哀れんで見られていると感じている障がい者は多くいる。
 「心身の機能に障がいがあること」と、「不幸であること」はイコールではない。「かわいそう」ということは、社会との相互作用や、その人の生き方、人権を無視して「苦痛が多い」という側面のみ強調し、人間関係から切り離してしまう行為である。  
    (以上、三重県人権センター発行の「障がい者の人権」より引用)

 私自身は、すべての人間には何らかの障がいがあると考えている。私は20歳を過ぎた頃より、メガネをかけている。今では遠近両用のメガネを使用し、メガネという補助具がなければ私もただの障がい者だ。
 このnoteで366日間毎日記事をアップする「こだわり」ももしかしたら障がいの一種なのかもしれない。自戒の意味をこめて、近い未来、インクルーシブな社会になっていくことを期待したい。

私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。