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薩摩武士の悲劇~宝暦治水~

 私が小学校のとき、郷土の歴史として学んだのが「木曽三川治水工事」、いわゆる「宝暦治水」だ。工事に関わった薩摩藩の藩士が大勢亡くなっている。

 宝暦治水とは、江戸中期、宝暦4(1754)年から行われた薩摩藩士らによる木曽三川の治水工事をいう。その時の総奉行が薩摩満家老の平田靱負ゆきえである。木曽三川とは、揖斐川、長良川、木曽川からなる。北・中央アルプスの山々に源流を持ち、豊富な水が濃尾平野を潤してきた。だが、豊富すぎる水は江戸以前から厄難の種でもあった。3本の大河は下流で網の目のように絡み合い、大雨が降るたびにあふれた。

 西に行くほど地盤が低くなる濃尾平野。豪雨が続くと三川がまとめてではなく、それぞれ時間差で攻撃してくるから地域住民に与える打撃は果てしがない。そこで地域住民は、土手で囲った高台に家をつくり、わずかな周辺地を細々と耕していた。しかし、徳川時代に入り事態はさらに悪化した。徳川家康は、西国大名から名古屋城を守るため、最初の巨大プロジェクトが尾張で行われた。「御囲堤」の築造であった。家康は土木の天才・伊奈備前守忠次に命じ、犬山から河口にいたる約50kmの堤防を造らせ木曽川の流路を固定した。つまり、尾張平野に流れ込んでいた何本もの川を締め切って西流させたわけである(瀬替え)。これで尾張はぐるりと堤防で囲まれ、洪水の災厄から開放されることになる。これによって居張の国は水害から守られたが、対岸の美濃側は御囲堤より三尺(約一メートル弱)以上堤防を低くする不文律が強制された。美濃側では自衛策として集落や田畑ごと提防で囲む輪中地帯を形成。だが、次第に洪水の規模は広がり、洪水が終わっても長い間水が引かない。輪中の民は幕府に悲鳴を訴え続けた。木曽三川を抜本的に変える大改造が必要だった。そして、宝暦3年の大洪水が、幕府の重い腰をあげさせた。

 絡み合う三つの大河を分離する計画の実行。だが、誰がそんな大工事をやるのか。各藩、息を詰めた矢先、薩摩に幕命が下った。「美濃の国に出向き治水工事をせよ。」 薩摩藩にとっては、青天の霹靂だった。

 御手伝普請とは、徳川幕府が大きな工事を各藩に担当させることだが、薩摩藩に命じられたそれは常軌をはるかに逸していた。木曽、長良、揖斐三川を分流するという大改修工事には莫大な費用がかかる。幕命が下った年の瀬、藩主島津重年はじめ重臣たちは苦悩した。幕府は、明けた正月から始めて11月までに完成せよという。工事対象は、美濃、尾張、伊勢併せて193村にわたり、幕府の費用試算は10万両(今の約80億くらい)。薩摩藩はすでに66万両の負債を抱えていた。参勤交代など度重なる負担で財政は火の車となる。「この上、なぜ、これほどの難題を」。集まった重臣たちは歯噛みした。それは関ケ原の戦で豊臣派(西軍)につき、負けても堂々と家康本陣を突破して引き上げた薩摩藩への脅威だった。幕府としてはその牙を根こそぎ抜いておきたいという考えだったのだ。薩摩がいかに大藩とはいえ77万石。徳川800万石から勝てぬ喧嘩を売られたようなものだが、断れば潰され、受ければ地獄が待っている。勇猛な薩摩藩士たちは、幕府との戦いも辞さぬと藩主に迫った。

 「そうなれば藩内の民百姓まで犠牲となる。大君の民に尽くすも武士の本分」と血走る重臣たちを鎮めたのは薩摩藩家老・平田靱負であった。血涙を絞って説いた平田にとっても、それは光の見えない道ではあった。
 そして、宝暦治水の悲劇はここから始まった。平田は美濃へ向かう途中、金策のため大阪に寄る。薩摩藩士が町人に頭を下げると噂にもなった。藩民は悉く倹約し、藩士の給料も大幅にカットされた。すべて治水費捻出のためである。これは薩摩藩にとって形を変えた戦だった。

 宝暦4(1754)年の年明け、千人近い薩摩藩士がひと月ほどかけて美濃に到着した。郷里を離れて300里。見知らぬ土地で慣れない土木工事に従事することとなった藩士たちは老いも若きも、さっそく川を見に行って驚いた。薩摩のそれに比べたら海だ。こんな大河に人がどう手を加えるというのか。大阪を走りまわって準備金を調達した総奉行・平田靱負が追って駆けつけると、そこには刀ではなく鍬を振るう藩士たちの姿があった。

 4つの工事区域に分けられた藩士たちが、地元百姓と共にもっこを担ぎ、籠を背負って水につかり、幕府役人に厳しく監視されながら耐えている。分散して宿泊する百姓家では、幕府の指示により、一汁一菜しか出ない。栄養を補う肉や魚は出ない。たとえ病に冒されても十分な手当もできない。そんな苦労の末、やっとできた堤防が洪水で流されたり、計画変更や追加工事はざらというありさまだった。特に、木曽川と揖斐川の合流地点に堤防を築く工事は困難を極めた。大木に結んだ大石を川底に沈めたり、古舟に石を積んでいき、舟に穴を開けて沈めたり、危険な作業の連続だった。

 あまりにも進展の見えない工事や金策の苦しさから、薩摩藩では「こんな無茶ぶりをするなんて、幕府は薩摩を生かしておかないつもりに違いない! 一戦交えるべきだ!!」という声も持ち上がり始めた。そのため、現地に来ていた薩摩の家老・平田靱負は血気盛んな者たちをなだめ、幕府に窮状を訴える手紙を出した。そうこうしているうちに、今度は慣れない土地のためか、薩摩藩士の間で赤痢が流行り始めてしまった。157名が罹患し、33名が過労や疫病により死亡した。宝暦4年4月14日、幕府への抗議として、切腹する人が出てしまった。だが、平田は彼らの悲慣をあえて呑み込み、病死として報告した。理不尽な幕府役人に命で抗議し、その後も切腹する者は後を絶たず、実にその数53人にも達した。靱負は三重の面で困り果てる。割腹は「お家断絶」と決められていたからだ。さらに、当初10万両と言われていた費用は総額40万両(約320億)にも膨らんでいた。そして、宝暦5(1755)年3月、油島、松之木の両側で締切り堤がようやく完成したのだった。

 平田靭負は工事完成の報告を国元に送ると、すべての責任を負って自刃する。国元への手紙に私的な恨み辛みは一切なし…日本最大の治水工事を成し遂げた薩摩義士の最後だった。工事完成後、薩摩藩士が植えたという日向松は千本松原となり、その南端には宝暦治水碑がある 。

 この悲劇は、幕府との関係や幕末のドタバタに紛れ、少なくとも大正時代あたりまで、地元鹿児島では全く知られていなかった。大正9(1920)年に鶴丸城の裏あたりに「薩摩義士碑」という、この事件の犠牲者を弔う碑が建てられ、ようやく鹿児島でも知られるようになったとのことだ。

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