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センバツ発祥の地:球国ナゴヤ②

 前回の記事の通り、センバツ第一回大会は名古屋の郊外だった八事の山本球場で行われた。この山本球場は名古屋大須の万松寺の先代住職だった伊藤寛一が設計した。彼は愛知一中の明治29年ごろの第二次黄金期の選手で、早大を卒業後、終生、母校の野球部を側面から支えて、後輩のだれからも慕われていた。野球和尚という名があったそうだ。

 第一回の選抜大会は愛知一中が出場したが、他に早稲田実業、横浜商、立命館中、市岡中、和歌山中、高松商、松山商が選ばれて参加した。高松商が優勝を飾った。愛知一中は二回戦でその高松商に1ー7で敗れた。

 「春のセンバツ」といえば、いまでは高校野球のメッカ甲子園球場とは切っても切れない存在となっているが、センバツ発祥の地はあくまでも八事の山本球場である。甲子園球場は大正13年の夏の大会の前に完成したが、春には突貫工事の真最中。主催者のはじめの考えとしては、地方の中学球界に刺激を与えるため、一年ごとに全国各地の球場を選んでまわり持ちとする意向だったが、第二回以後は設備の整った甲子園球場を晴れの舞台とすることになった。山本球場が第一回の会場に選ばれた理由は、「記念すべきスタートは、野球の盛んな名古屋の地で!」にあったようだ。

 第一回大会で選抜出場の栄に浴したのは、地元の愛知一中をはじめ、東の早稲田実業(東京)、横浜商(神奈川)、西から立命館中(京都)、市岡中(大阪)、和歌山中(和歌山)、高松中(香川)、松山中(愛媛)のわずか八校であった。いまの二十六校選抜に比べると時代の相違とはいえ、隔世の感がある。第一回出場の愛知一中は、一回戦で立命館中に16ー3で大勝したが、二回戦では優勝した高松商に1ー7と歯が立たなかった。
 さらに愛知一中は第三回大会まで連続選抜出場の栄誉を賜ったものの、実力はいま一つのところ…。第四回に選ばれた静岡中は広陵中(広島)に10ー0で七回コールドゲームを喫した。第五回から第七回大会にかけては東海地区から愛知一中、愛知商、一宮中、静岡中などが選抜されたが、いずれも最後まで残る勝運には恵まれなかった。

 山本権十郎氏の子孫にあたる山本宗平氏(上記写真は山本宗平氏所蔵)とは懇意にさせていただいており、山本権十郎氏が38歳であった明治29年に、滝川忠学氏から滝川山約26,000坪の土地を購入していたことを教えていただいた。織田信長の重臣であった滝川一益に仕えていた、尾張国中島郡稲島(愛知県稲沢市)出身の木全忠澄の子忠征が、滝川一益に仕えて滝川の苗字を与えられている。以後代々の子孫は滝川を称した。滝川忠征は滝川一益が没落後、秀吉に仕え、関ヶ原の戦いの後は徳川家康に仕えてそのまま旗本となった。そして、名古屋城築城の際に普請奉行を務めた後、家康の遺命により尾張藩の年寄(家老)に任命され、尾張国内で6000石を与えられ、出生地の稲島に屋敷(稲島城)を構えたのだ。忠学氏はその子孫にあたる。
 八事周辺にある川名山、白林寺山、南山、新豊寺山、奥平山、そして滝川山は、尾張藩の家臣団(奥平家・横井家・成瀬家・滝川家など)の控え山だった。控え山とは、家臣団が燃料としての薪をとったり、炭を作ったりするための山だ。明治時代になって藩が解体されたため、控え山としての必要性がなくなったこともあり、滝川氏が山本権十郎家に滝川山を含む滝川家の土地を売却することになったものと考えられる。

 歴史のつながりって本当に面白い。 


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