見出し画像

隠された地震の真実

 「愛知・名古屋戦争に関する資料館」にて「戦時下の愛知を襲った悲劇~報道されなかった地震の真実~」という企画展示が開催されている。
 太平洋戦争の真っ只中、昭和19年12月7日にマグニチュード8.0の東南海地震が、昭和20年1月13日にマグニチュード7.1の三河大地震が愛知県を中心とする東海地方を襲った。戦時下にあり、戦争に動員され、翻弄された人々がたくさん犠牲になったが、この2つの地震の真実は全く報道されなかった。

 わずか2か月間で立て続けに愛知県を襲った2つの地震だったが、日本国内で詳細に報道されることはなかった。当時、新聞報道を管轄していた内務省は、この地震について「当局発表以外の報道はするな」という通達を各新聞社に出していたからだ。そのため、現地の被害とはかけ離れた報道がされ、被災後の救援や支援の動きはほとんどなかった。その一方で、東南海地震や三河地震の約1年前に発生した鳥取地震は、支援がすぐに届いた記事や、それにより復興を進め戦意高揚につなげる記事によって迅速に報道されており、地震報道ですらも戦争の状況に翻弄されていたことが分かる。

 国立公文書館に所蔵されている『昭和十九年自十一月至十二月・勤務日誌』を現代語訳すると、次のように国から各自治体に厳命されていたことがわかる。
 当時の中央気象台がまとめた「東南海大地震調査概要」も完全に極秘扱いになっている。

国立公文書館蔵『昭和十九年自十一月至十二月・勤務日誌』より現代語訳

十二月七日に発生した東南海の地震の記事は戦時の都合上、左の事項に気を付けて編集してもらうこと
ー、震災の被害状況をおおげさに書かない
二、日本軍の施設や軍需工場、鉄道、港、通信、船の被害など、戦力の低下   
  を予想できるであろう内容は掲載しない
三、被害の内容は当局(政府)発表や関係資料のみを使ってもらう
四、被災地の写真の掲載はしない

 東南海地震から約1か月が経過した昭和20年1月13日、今度は三河地震が発生した。この地震により、現在の西尾市や安城市のある三河内陸部を中心にして多くの被害が発生した。当時、地震の被害に遭った地域には、名古屋市の国民学校の子どもたちが多く疎開していたため、その子どもたちも犠牲になった。疎開先の一つであった西尾市の妙喜寺には、本堂の下敷きになって犠牲になった子どもたちを供養するための師弟延命地蔵が納められており、毎年1月13日に三河地震の犠牲者を悼む法要が行われているという。また、三河地震によって発生した地割れの痕跡も保存されており、地震の爪痕を今日に伝えている。

三河大地震 1月13日

 今朝の夜明け前の四時頃、また大地震が起きた。僕らも飛び起きて揺れのややおさまるのを待って表に出た。本町には近所の皆さんが心配がおして出てきていた。近藤さんや横井さんの子供達は泣きそうな顔で親にへばりついていた。
 少し早いがそのまま起きて刈谷行きの用意をした、僕が自転車で父と兄と妹は電車で行くことにしてまず僕は六時半に家を出た、会社へ行き出勤カードをおして皆の出勤を待った、七時四十分ほちぼち皆が出勤して来たので「今日はまた刈谷へ行かねばならないからと』言って後のことを辻本君と長谷川さんに頼んでおいて会社を出た、一散に自転車を飛ばして刈谷のお寺に着いたのは八時半頃であった、未だ父達が来ていないので駅の方へと見にいった、それと行き違いに父たちが着いて、まず握飯を食べていた。
 今朝の地はこの三河地方が一番激しく、震源地は播豆郡の西尾町の辺りだそうです、この刈谷でも塀が壊れたり家が倒れたりした家が相当にあってお寺の山門も少し傾いていた、このお寺に学童疎開をしていた呼続国民学校の児童たちがこの大揺れに心配して不安そうな様子でした。
 ここより南の吉浜、大浜、三和村等では倒壊したお寺が四、五ヶ寺も有ってその寺寺では疎開学童や付き添いの先生が大勢圧死したそうです、後で聞いたのですが塗り師の杉本さんの息子さんも二人、三和村の二ヶ寺に学年別のため兄弟別れて学童疎開していたのに運が悪く二ヶ寺とも倒壊して犠牲になり亡くなられた、これも戦争の犠牲者で有る。
 握り飯を食べていると神谷さんが荷車で手伝いにきて下さったので、早速引っ越しに掛かった、預けておいたリヤカーと二台で、二百メートル程離れた借りれた農家の納屋へピストン輸送をした。
 借りられた納屋とは、熊村の有力な農家で三浦又兵衛さんといいその方の裏の納屋で、先の地震で傾いて前も横にも太い丸太で支えてあり、戸も障子も大方は動かない程で、なお心配なのは梁や長押しの所々が折れかかったりはづれかけたりしている、だけど雨風は凌げそうだ前は大家さんだし横も裏にも家が建っていて、泥棒の心配も少なそうだ。
 ともかく二台で大方午前中に運んでしまい、神谷さんの家で持つていった弁当で昼食した、一休みをして残りの荷物を運ぼうとしたらリヤカーのタイヤがパンクしていた、ともかくもう少しなので二回で運び込んで終った、直ぐに近くの自転車屋へ持っていったら言葉を左右にして直してくれないので、二、三軒捜し回って頼み奉ってやっと修理を頼み込めた、納屋に帰り皆で運んだ荷物を整理して、四時半頃大方片付いたのでリヤカーを取りにいった、未だ直っていず少し待っていて直して貰った。
 五時半頃刈谷を出発して帰途に付いた、帰りは荷物も納まったので気も楽になり、父子四人で二人がひいて二人がリヤカーに乗って、父、兄、僕と順に引っ張った、途中大府辺りで暗くなり寒くなってきたが、芋切り干しをかじり疲れた足を引きづり所々で休みながら、住きとは違い時間もかかりやっと夜半の十一時過ぎに名古屋の家に帰り着いた。食事も早々に疲れているのでぐっすり寝れた。
 これからの一年間 名古屋。刈谷間の自転車の往復が頻繁となった。

 上記の文章は、実際に戦時中に、「空襲、地震、敗戦」を経験された井川幸治さんの書かれた貴重な資料である。ぜひ多くの人に読んでいただきたい。名古屋市の「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」にて7月7日まで開催中の企画展だ。しかも拝観無料である。戦争や大地震を経験していない私たちはぜひその恐ろしさを現実を知っておくべきなのだ。

私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。