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島崎藤村原作の映画『破戒』を観て想う

 2年前の夏、島崎藤村の小説『破壊』が映画化された。先日、この映画を観る機会に恵まれた。
 映画のストーリーを以下に載せる。なお、このストーリーは映画『破戒』公式HPのストーリーから引用したものである。役名の次の( )内は演じた俳優の名前である。

瀬川丑松(間宮祥太朗)は、自分が被差別部落出身ということを隠して、地元を離れ、ある小学校の教員として奉職する。彼は、その出自を隠し通すよう、亡くなった父からの強い戒めを受けていた。

彼は生徒に慕われる良い教師だったが、出自を隠していることに悩み、また、差別の現状を体験することで心を乱しつつも、下宿先の士族出身の女性・志保(石井杏奈)との恋に心を焦がしていた。

友人の同僚教師・銀之助(矢本悠馬)の支えはあったが、学校では丑松の出自についての疑念も抱かれ始め、丑松の立場は危ういものになっていく。苦しみのなか丑松は、被差別部落出身の思想家・猪子蓮太郎(眞島秀和)に傾倒していく。

猪子宛に手紙を書いたところ、思いがけず猪子と対面する機会を得るが、丑松は猪子にすら、自分の出自を告白することができなかった。そんな中、猪子の演説会が開かれる。

丑松は、「人間はみな等しく尊厳をもつものだ」という猪子の言葉に強い感動を覚えるが、猪子は演説後、政敵の放った暴漢に襲われる。

この事件がきっかけとなり、丑松はある決意を胸に、教え子たちが待つ最後の教壇へ立とうとする。

 これまで、所属している人権問題について学ぶサークルの仲間たちと、京都、奈良、堺にて被差別部落についてのフィールドワークをしてきた。名古屋に住んでいると被差別部落の問題を実感することはほとんどないのだが、この問題を抱えた府県に行くと、人間の差別意識がもたらす何とも言えない闇のようなものを実感する。

 1897年、25歳で刊行した『若菜集』で一躍ロマン主義の旗手としての名声を獲得した島崎藤村は、しかしその数年後から、長野県小諸で雌伏の時を過ごすことになる。

 約6年の呻吟しんぎんのなかで藤村は詩と決別し、小説家として生きる覚悟を決める。そして、大きな決意と野望を持って、『破戒』の原稿の一部を懐に抱え、再度の上京を果たした。

 1年後の1906年、のちに子どもを相次いで失うほどの困窮のなかで、『破戒』は自費出版の形で世に問われる。

 被差別部落の出身である主人公瀬川丑松は、出自をかくして生きていくことに苦悩する。その追い詰められていくさまが、人間関係から緻密に描かれる。

 刊行後、本作はたちまち大きな反響を呼んだ。一青年の近代的自我の苦悩を言文一致体で表現するという、明治の文学青年たちが目指した理想が、ここに見事に結実していたからだ。またそれは、藤村の師であり同志であった北村透谷が目指しながらなし遂げられなかった「近代小説」の一つの完成形でもあった。同時期に『坊っちゃん』を書き上げていた夏目漱石は、「明治の代に小説らしき小説が出たとすれば『破戒』ならんと思う」と森田草平宛の手紙に書いている。

 もう一点、この作品が画期的だったのは、こうした被差別部落問題という社会課題を、文学の形で取り上げた点にある。

 新しい文体を手に入れたが、そこに書くべきものが見つからない。二葉亭四迷や国木田独歩が抱えた苦悩を、ついに藤村は乗り越えた。小説は単に人間の内面を描くだけではなく、それを通じて社会変革を訴えることもできる装置となった。

 『破戒』における被差別部落問題の取り上げ方には、もちろん限界もあった。それでも『破戒』の文学的価値は失われることはない。いやむしろ、ヘイトスピーチが横行し、ネット上でも差別的な言動が普通にまかり通ってしまう現在、もう一度読み返されるべき作品だ。

 『破戒』には、猪子蓮太郎という、自分が被差別部落出身であることをカミングアウトし、反差別の闘いに身を投じた作家が登場するのだが、主人公の丑松は、その猪子に憧れながらも、親の戒めに従って出自を隠して生きてきて、悶々と悩むという青年だ。敢えて小説の主人公を解放運動の闘士でなく、それを見ながら悩み屈折する青年にしたのは、島崎藤村の作家としての思いゆえだろうが、その作者や主人公のスタンスの取り方そのものが、「差別と文学」というテーマの中で議論の俎上そじょうに載ったのだった。

 差別表現をめぐる議論そのものがこの20年ほど低調で、部落差別というテーマ自体が、若い人には縁遠くなってしまった感のある昨今だが、今回の映画公開を機に、そのテーマをめぐる議論がなされることを期待したい。

 どんな文学作品も歴史的制約は免れないわけで、それを現代においてどういう表現で映像化するのか。製作側もいろいろなことを考えたに違いない。この映画のプロデューサーと脚本家の思いが込められている。

 映画『破戒』を製作することになったきっかけは、2022年が全国水平社創立100周年にあたるので、それを記念した映画を作ろうと「100周年記念映画製作委員会」が立ち上がったことによる。

 島崎藤村の『破戒』はよく知られた小説だが、過去においてはその歴史的評価をめぐって紆余曲折があり、時代的制約を受けた差別小説だとして一時期、絶版になったこともあった。映画化するに際し、『破戒』についてのネガティブな意見もずいぶんあった。主人公の丑松が出自を隠していたことを生徒たちに謝罪するという描き方について否定的な意見も多かったようだ。

 映画中では「穢多えた」という差別語がたくさん出てくるのだが、抗議を受け、一時は島崎藤村自身も書き換えをしたという。しかしながら、最終的には差別問題を考える教科書でもあるという評価を得たのだった。

 『破戒』というのは、自分の出自を絶対口外してはいけないという父親からの戒めを破るという物語だが、その一点で延々と読者の興味をかき立ててストーリーを引っ張っていく。また、主人公の丑松が寄宿していた寺の住職が、預かっていた娘に手を出すという別の意味での破戒(破戒僧)のエピソードもある。藤村は根本的にはこのテーマについての問題意識が高く、それをストーリーとして展開するという技があり、構成もしっかりしていた。

 主人公の丑松が出自を明らかにする際、自ら決意し、覚悟を決めるという強い意志を示すシーンでは、子どもたちとの別れも「ずっと君たちと一緒に勉強したいのになぜできないんだ」という悔しさの涙という描き方になっていた。絶対に教育の現場からは逃げないというメッセージを残して去っていくのだが、ある意味、希望に向かって進んでいく場面でもあった。目標に向かって新たに人生の再スタートを切るという、希望に向かって進んでいくという終わり方になっている。

 島崎藤村がこの小説を書いた当時は、被差別部落出身というだけで排斥される社会の空気があった。しかしながら、この小説には現代に訴えるテーマや力が十分にある小説だ。現代の人たちが映画を観た時に感情移入できて、希望が持てるものにしようという脚本家としての思いが反映されている。現代には、LGBTやヘイトスピーチなど、いろんな差別問題が指摘されており、辛い目にあっている人も多い。そういう人が見た時に、自分も頑張ろうという気持ちになれる映画になっているような気がする。実際に部落差別されている人がこの映画を観た時に、どんな感情を持つのかを想像するのは難しいが、少なくともこの映画を観た人たちが、差別されている方々の抱えている苦しみや悲しみの一端は理解できる作品に仕上がっているように思う。

 原作と本編で異なるのは、丑松が過ごした明治の末期というのがどんな時代だったのかがわかるように、映画の中に「日露戦争」のことを描いたり、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を引用したりしていることだ。

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