見出し画像

ドイツ軍俘虜が愛知に伝えたもの

 愛知県半田市の半田赤レンガ建物にてドイツ文化セミナーが開催された。妻と私が受講したセミナーは、愛知県立芸術大学音楽学部専任講師の七條めぐみ講師による「ドイツ軍捕虜が伝えたモノ作り、そして音楽」という内容だ9月16日のことである。当時の捕虜はとても大切にされ、私たちが知っている捕虜のイメージとはまるで違い、わりと自由があり、日本人との交流の機会もあり、ドイツ人捕虜が名古屋市の産業の発展にかなりの貢献をしてくれていることを知り、驚きを隠せなかった。

 日露戦争の10年後、ヨーローパを中心に世界を巻き込む戦争が始まった。日本は、東アジアからの勢力を一掃し、権益を拡大するために中国山東省、ドイツ領南洋諸島に出兵した。青島のドイツ軍に対して日本は、入手したばかりの飛行機を使用した。名古屋からも歩兵第6連隊の一部が青島守備に派遣されたという。 

 青島攻囲戦がはじまると、ドイツ人捕虜を収容するために名古屋をはじめ11か所に収容所が設置された。1914年11月、名古屋ではロシア人捕虜の時と同じ「東別院」などに収容したが、翌年9月には東区新出来町の陸軍用地に新しい収容所がつくられた。大正6年に発行された『名古屋全圖』(松岡明文堂)には、はっきりと「俘虜収容所」と表記されている。後に福岡、久留米から移送された俘虜も合わせ、多い時は500名を超えるドイツ人俘虜がこの収容所に収容された。       <字数:2365文字>

 当時の名古屋では1911年(明治44年)に結成された「いとう呉服店(現松坂屋)少年音楽隊」が活動しており、収容所に招かれ、ドイツ人俘虜達の前で演奏したこともあったそうだ。

 この「いとう呉服店少年音楽隊」は1938年(昭和13年)に東京に本拠を移し、現在では東京フィルハーモニー交響楽団として活発な活動を続けている。

 その後、名古屋俘虜収容所では他のドイツ人俘虜収容所と同じようにドイツ人俘虜によるオーケストラが活動を開始したが、その結成に当たり鈴木楽器店(現鈴木バイオリン)から、楽器の提供があったということだ。

 ドイツ人俘虜たちは名古屋の近代化に多大な貢献をしている。その代表的なものが敷島パンだ。当時半田市にあった敷島製粉は、俘虜収容所からドイツ人パン職人を招き、製パン業に乗り出した。敷島は、第一次大戦終了後に解放されたドイツ人俘虜からハインリッヒ・フロインドリープ氏を技師長として招いた。フロインドリープ氏の月給は300円で、当時のサラリーマンの約10倍だったという。

 月日は流れ、昭和13年(1938)年、このドイツ人俘虜収容所の跡地に旭丘高等学校が新築移転してきた。現在、旭丘高等学校正門左手の道路に面し「日独友好の碑」が建てられている。碑文には以下のように書かれている。

 この地には1915年ドイツ人名古屋収容所がおかれここに第一次世界大戦の折に総勢519名の人々が1920年までの5年間生活した
 ここには多くの蔵書を備えた図書館があり日刊新聞も発行され運動場にはフットボールテニス体操などの諸施設がありオーケストラも編成され開放的であった
 名古屋にこれほど多くのドイツ人が在住することは稀有であったため地域住民は彼らに遠来の客として接し先進国ドイツの文化に関心を持ち彼らとの交流が多く見られた
 地域住民は特にドイツ人の勤勉な生活態度に深く感銘を受け優れた職業技能に触れて多くを学びこれを地域の産業振興に役立て音楽やスポーツを通して友好関係を深めた
 ゆえにこの跡地に碑を建立して歴史の事実を後世に伝えることは誠に意義深く国際親善の礎になるものと信ずる。

 名古屋市市政資料館所蔵『名古屋俘虜収容所業務報告書』には、収容所の献立表や所外労働の様子、体重の変化など捕虜の日常生活を物語る貴重な文書が数多く収録されている。また、収容所内のクリスマス会などの行事や民間工場で働く様子を写した写真が60枚ほど残されている。こうした資料を発掘して調査してきたのは、「青島ドイツ兵俘虜研究会」だった。

 1919年に盛田善平(のちの「カブトビール」「敷島製粉」の創始者)によって設立されたのが、敷島製パン、現在のPascoだ。同社のホームページには、1920年にドイツ人製パン技師ハインリヒ・フロインドリーブ氏を迎えて創業を開始したことが書かれている。この人物こそ新出来町の名古屋収容所にいた捕虜の一人ハインリヒ・フロインドリーブだった。彼は半田の敷島製パン会社へ護衛付きで通勤をしていた。。戦後収容所から解放されたあとも日本に残り、敷島パンで製パン技術の改善と増産のたく・働き、月収300円の待遇であったという。当時のサラリーマンの10倍ほどです。後に彼は、神戸で「ジャーマンホームベーカリー H.フロインドリーブ」を創設した。その店は今も営業を続けているそうだ。

 製パン技術以外にも捕虜の技術は名古屋の産業発展に寄与したといわれている。機械金属関係では、日本車両・岡本自転車・旭鍍金・斎藤鉄工が就労先だった。窯業関係では、佐治製陶所・千種製陶所・名古屋陶器・日本陶器・名古屋ルツボがある。紡績関係では、豊田織機・服部ウィ―ビング・服部紡績などだ。食品関係では、日清製粉・山本菓子店があり、それ以外の就労先は甲斐洗濯店があった。ドイツ人捕虜の技術は高く評価され、1920年には愛知県商品陳列館で「捕虜展覧会」が催され、名古屋市民に大歓迎された。

 名古屋市平和公園陸軍墓地の一角にドイツ人兵士の墓がある。第一次世界大戦の捕虜の墓だ。名古屋陸軍墓地に眠る12人のドイツ人兵士は故国に帰ることができなかった。一方で、帰国せず、戦後も日本に残る道を選んだドイツ人が名古屋収容所で20人以上もいた。日本に新たな文化の華を咲かせてくださった貴重なドイツ人だ。

私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。