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名古屋の戦後復興~100m道路建設とと平和公園への墓地移転~

 名古屋市には100m道路と呼ばれる片側5車線で、その真ん中にイチョウなどの広葉樹が植えられた緑地帯がある。緑地帯は公園が整備されていたり、真上に都市高速道路が通っていたりする。以前はテレビ塔と呼ばれ、現在は中部ミライタワーと呼ばれるシンボリックな建物もある。中部ミライタワーの真下にはカフェスペースや広場、ガーデンスペースがあり、市民にとっては憩いの場でもあり、イベントスペースにもなっている。

 戦前の名古屋市中心部は、名古屋城の南に広がり、碁盤状の街並みには商家やお寺がたくさんあった。名古屋市は1942年4月18日から1945年7月26日まで計63回の空襲があり8000人近くが亡くなった。1944年12月13日には東邦商業学校(現在の東邦高校)の生徒ら20人が動員先の三菱重工業名古屋発動機製作所(東区大幸町)で犠牲になった。1945年5月14日は最も多い472機のB29が来襲し、日本最初に国宝指定された名古屋城天守閣が焼失した日だ。
 東邦高校生徒会では2014度から名古屋市や同市議会に条例制定を要望するなどの活動を続けてきた。市の有識者協議会が「5月14日」とする意見をまとめ、2024年3月の市議会で条例案が可決され、2024(令和6)年5月14日、「なごや平和の日」と制定された。「名古屋空襲により犠牲になられた方々を悼むとともに、悲惨な戦争の体験・記憶を後世に語り継ぐことにより、市民の恒久平和の実現を希求する意識の醸成を図り、もって社会の発展に寄与すること」が条例制定の目的となった。

 第2次世界大戦時の名古屋市は、一大軍需産業都市 として全国航空機生産の4割を占めていた。そのため東京と同様に他に例を見ない徹底した空襲を受け、それは終戦まで計38回を数え、来襲した延べ機数は1,973 機にも及んだ。これらの空襲により、名古屋城をはじめとした中心部の建物のほとんどが壊滅、当時の市域の1/4となる約3,860haが灰となった。被災した市民は52 万人、被災戸数は13万戸と惨憺たる状況であった。
 名古屋市はそのような状況を乗り越え、現在では横浜市や大阪市に次ぐ全国第3位の政令指定都市となり、 中京圏の政治・経済・文化・交通の中心となっている。 戦後の混乱のなか、名古屋市はいち早く都市の復興計画に取り組み、復興土地区画整理事業に着手し、猛スピードで事業に取りかかったのである。なぜ名古屋市は他都市に類を見ない速さで戦災復興都市計画を進 め、大都市へと発展させることができたのだろうか。<字数:4386文字>

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