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フランシスコ・ザビエルはなぜ日本へ②

 フランシスコ・ザビエルがいよいよ日本を目指す。 

 アンジローは、ザビエルから聞いた福音に感銘を受け、ゴアで洗礼を受けている。以降、ザビエルの布教活動を助けることになる。ザビエルは、イエズス会に日本布教の許可を取り付け、アンジローとともにゴアで1年間を過ごし、日本へ行く準備をした。そうしてザビエルは、日本に向かうことになるのだが、その際、ポルトガル国王から1000クルサド以上の援助を受けていた。もちろんポルトガルの通貨は日本で通用しないので、その分の「商品」を積んでいったのである。

 宣教師の記録によると、1年間の生活費はだいたい20クルサドだったとされているので、1000クルサドでは50人分の生活費が賄えたわけである。ザビエルの日本滞在の2年間、各地で布教し教会の設立などをしても費用に困ることがなかったのは、この援助のおかげである。

 1549年6月24日、ザビエルとコスメ・デ・トルレス司祭、ファン・フェルナンデス修道士、アンジローと二人の日本人らは、マラッカから日本へ向けて出発した。そして53日間の航海ののち、8月15日にアンジローの故郷、鹿児島に上陸したのだ。

 宣教師たちは、派遣された地域から活動の報告をしなければならない。その報告の中には、交易に関する情報も多く含まれていた。宜教師たちは各地を移動したり、必要物資を運んでもらう際に、商人たちの力を借りなければならなかった。商人たちに協力してもらうためには、彼らに利をもたらさなければならない。また、商人たちは儲けた金の一部を教会に寄付する。その寄付金で、宣教師たちの費用が賄われる。つまりイエズス会の宣教師たちは布教活動の金を出してもらうためにも、貿易に手を貸す必要があったのだ。
だからザビエルも時々、貿易に関するアドバイザー的な発言をしている。たとえば堺を訪れたとき、イエズス会のアントニオ・ゴメス宛の手紙に次のようなことを書いている。
 「堺は非常に大きな港で、金持ちの商人も多く、日本中の金、銀が集まってくる。ここに商館を置くべきだと思う」

 イエズス会へのほかの手紙には、次のような記述もある。
 「神父が日本へ渡航するときには、インド総督から日本国王への親書とともに、相当な金貨、贈り物を携えてきてもらいたい」
 「もし日本国王が、キリスト教に帰依するようになれば、ポルトガル国王にも大きな物質的利益をもたらすと倍じている」

 またザビエルは、武器の輸出を促進した面もある。さすがにザビエルが大名に直接、武器を売ったことはない。しかし、ザビエルは大名たちに鉄砲などを贈呈していた事実はある。山口の大内義隆に献じた贈答品の13種の中には「三つの砲身を持つぜいをこらした銃」も含まれていた。ザビエルは、当時の日本人が欲しがるものを携えてきており、「武器のセールスマン」のような役割も果たしていたのだ。ザビエルを招聘した大名の中には、宣教師に武器の輸入を所望した者もいる。大友宗麟などはその最たる例である。大友宗麟は、領内でのキリスト教の布教を許可する代わりに、ポルトガル船との交易を行い、大砲などの最新兵器も手にしていたのである。


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