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国に二度殺される死者

 沖縄戦で亡くなった方々の遺骨を収集するボランティア活動があることは以前から知っていたが、その活動に従事する人たちを「ガマフヤー」と呼ぶことは知らなかった。高校教師時代に、沖縄修学旅行の下見と引率に8回ほど行き、そのたびにガマ(沖縄の人々が避難した鍾乳洞のこと)にも入らせていただいた。私自身も生徒の引率でガマの中に入り、ガマの中で終戦を迎えた、あるいは米軍の攻撃で亡くなった方たちの生活道具や遺品、場合によってはご遺骨を目にする機会があった。懐中電灯の灯りを消し、真っ暗闇の中で全員で黙祷を捧げた。私には衝撃的な体験であり、当時高校生だった教え子に会うと、「修学旅行での貴重な体験をもっと大事にしておくべきだった…」と反省の弁を述べてくれることが多い。私が初めて沖縄修学旅行を引率したのは1994年。最後に引率したのは2007年のことであったが、あの頃はまだ「ひめゆり学徒隊」の方がお元気で、戦時中の生の体験を語っていただくことができた。現在は、「ひめゆり」の方々もご高齢となり、リアルタイムでの講演はされていないと聞く。

 沖縄は旧日本軍によって本州を守るために見捨てられ、「鉄の暴風」と形容された激烈な砲撃を受けた。旧日本軍が司令部を置いていた首里(那覇)から南部の糸満市の方向へ撤退する際、住民を巻き込む激戦地となった。軍人も民間人もガマに避難するも、米軍の苛烈な砲撃やガマ内部への火炎放射器を使用しての攻撃で多くの命が失われた。日本本土を守るための持久戦に持ち込まれ、本土決戦に備えた時間稼ぎの「捨て石作戦」に過ぎなかった。今でもガマの中や戦場になったガマの付近には、たくさんの小さな骨や歯が遺されており、その収集活動をされているのが「ガマフヤー」と呼ばれる方々だ。

 ガマフヤーとは「ガマ(沖縄の洞窟)を掘る人」の意。彼は沖縄戦で亡くなった方の遺骨を探し集め、家族のもとに還す活動を40年以上している。地形を読み、ガマの位置を推測し、出てきた人骨の位置から、彼もしくは彼女がどのように亡くなったのかを考察し推定。その過程を含め遺族に伝え届ける。装備品から日本兵と思われる方の部分骨があった。なぜこんな場所でひとり逝き、骨にならなくてはならなかったのかを思うと、いまを生きる私たちは、怒りや哀しみの向こう側にたどり着き、同じ過ちを繰り返さない世界をつくらなければならないと感じると話される。

 沖縄戦が終わってから78年経ついま、多くの沖縄県民が強く抗議しているのが、一帯の鉱山開発による土砂を名護市辺野古沿岸の米軍基地建設現場での埋め立てに、ガマフヤーが調査している一帯を鉱山開発してその土砂を使おうとしてることだ。防衛相は当初、現在採掘している本島北部や県外から土砂を持ち込む計画だったが、県が外来生物侵入を防ぐための土砂搬入規制条例を設けたたため、ほぼ全量を県内から調達する方針に転換し、沖縄南部をその候補地としたのだ。2016年に施行された戦没者遺骨収集推進法が遺骨収集を「国の責務」としているにもかかわらず、地上戦の戦場として捨て石となった沖縄への配慮は全く感じられない。南部の土砂使用は「県も沖縄戦で多くの犠牲者を出した県民の心を深く傷つける」と玉城デニー知事も反対の立場だ。

 沖縄戦の日本人戦没者のうち、いまだ2700柱以上の遺骨が未収集とのことだ。すべての遺骨が収集され、糸満市の「平和の礎」にその名が刻まれるまで、沖縄の土が辺野古の埋め立てなどに無造作に使用されることなどあってはならない。小さな骨や歯は、はやくガマフヤーに見つけてもらいたいと待ちわびているはずだ。

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