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ウタリを大切にするアイヌからの学び

  アイヌに関する記事連載の後編は「ウタリを大切にするアイヌからの学び」だ。これを書くにあたっては、北海道白老郡白老町にあるウポポイ(民族共生象徴空間)の資料を参考にさせていただいた。アイヌの人たちがいかに有能だったかがわかる。しかしながら、日本の同化政策によって長きにわたって苦しめられた来た歴史の中で、アイヌの人たちやその考え方がいかに素晴らしいかがわかる。<字数:4742文字>


 19世紀後半の北海道において、同化政策によって設置されたアイヌ民族の児童を対象とした学校では、日本語での教育が行われた。1910年代以降、アイヌ民族による出版物が現れる。その著書である『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる知里幸恵ちりゆきえの家を言語学者の金田一京介が訪れたのは、幸恵が15歳の時であった。金田一の目的はアイヌの伝統文化を記録することであった。幸恵の祖母は、アイヌの口承の叙事詩「カムイユカラ」の謡い手であった。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちからアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き記録に取る姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、カムイユカラ研究への熱意を感じた。幸恵はカムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。やがて、カムイユカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京の本郷にある金田一宅に身を寄せて翻訳作業を続けた。幸恵は重度の心臓病を患っていたが、翻訳・編集・推敲作業を続け、『アイヌ神謡集』は1922(大正11)年9月18日に完成した。しかし、その日の夜、心臓発作(僧帽弁狭窄症)のため金田一宅で19年という短い生涯を閉じた。知里幸恵の「アイヌ神謡集」と同時代の1920年代にはジョン・バチラーを中心とした雑誌「ウタリグス」が発行され、多くのウタリ(仲間・同胞・人民)がそれぞれの思いを主に日本語で発表した。

 バチラー八重子 ~ウタリへの慈しみ~

 バチラー八重子は1884(明治17)年、北海道伊達市に生まれ、7歳のときに司祭ジョン・バチラーから洗礼を受け、その後養女となる。伝道師として活動する中でウタリ(仲間・同胞・人民)の苦境に心を痛め、そうした思いを歌に詠み、1931(昭和6)年には「若きウタリに」を出版する。晩年はバチラー夫妻記念堂を拠点に信仰の道に勤めた。

1.若きウタリに~歌を詠むということ~                      
 八重子は、日本の和歌という形式を用いて、アイヌ語や日本語によって歌を詠んでいる「若きウタリに」は、言語学者の金田一京助の推薦によって、歌人の佐佐木信綱(1872~1963)がまとめたものだ。短歌の三十一文字に込められたのは、ウタリ、とくに若者を鼓舞するもの、実父や故郷を詠んだものや、養父母とともに旅行したイギリスでの思い出、そして口承文芸に出てくる英雄たちを慕う気持ちなどで、これらは、同化政策によってアイヌ民族の生活が大きな変化を余儀なくされた苦しい胸の内を詠んだものだった。

ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名
              誰しかこれを 取り返すべき

2. 文化を伝える
 八重子がアイヌ語や文学以外のアイヌ文化とどのように向き合い、残そうとしたのかを示す記録は多くない。手がかりの一つになるのが博覧会への出品資料と立教小学校に残された民具類だ。1950(昭和25)年に旭川で開催された北海道開発大博覧会と、1958(昭和33)年に札幌と小樽で開催された北海道大博覧会に八重子は民具を出品している。その後、それらの民具は東京の立教小学校に納められる。聖公会が母体の立教学院は、八重子の弟である向井山雄の学び舎でもあった。これらの資料は立教大学の博物館実習に使われ、立教小学校で長く展示されるなど、アイヌ文化の普及に役立てられた。

3. 信仰に生き、ウタリを思う
 ジョン・バチラーの帰英後、八重子は有珠にもどり、バチラー夫妻記念堂を拠点に伝導師として活動する。そして、次々と訪れる身内との死別や苦しい生活の中でも、ウタリや周囲の人たちのことを思う気持ちは変わらなかった。1959(昭和34)年に日本聖公会の数百年祭が東京で開催された際には、海道から多くの信徒とともに訪れ、アイヌ語の聖歌を披露している。北海道内各地にも巡回説教のために赴き、1960(昭和35)年には各地のウタリを訪ねる。弟の山雄を見送った翌1962(昭和37)年に、知人を訪ねて京都を訪問している最中に客死する。京都で多くの聖公会関係者に見送られ、亡骸は伊達と、札幌にある養母ルイザの墓に分骨して納められた。

 違星北斗 ~コタンを夢見て~

 違星北斗いぼしほくとは1901(明治34)年12月末、余市に生まれた。少年時代より和人のアイヌ差別に対する「反逆思想」を抱いていたが、ある和人教師のひと言から「アイヌの復興」という信念へと転換する。しかし、27歳で肺結核が悪化し志半ばにして永眠。北斗の死後、彼の遺志は「コタン違星北斗遺稿」として出版された。

1.余市に生まれて
 1908(明治41)年、北斗が6歳の時に小学校に入学した。それまでアイヌであることを意識せずに暮らしていたが、他の子どもから受けたいじめがきっかけで自分自身がアイヌであるということを知る。2年次に進級した際に大病を患うも、1914(大正3)年に小学校を卒業。その後は家業である漁業の手伝いや木材の労働者として出稼ぎに行く、1918(大正7)年に再び病を患う。この時期に、北海タイムスに掲載されたアイヌを差別している二首の歌を見て、少年時代の経験から和人に対して「反逆思想」を抱く。しかし、その後、和人教師からのひと言により一転して、北斗はアイヌの地位向上を志すようになる。

2.東京でのさまざまな出会いと気づき
 1925(大正14)年2月、北斗が23歳の時、東京府市場協会の事務員として職を得る。上京後まもなく、言語学者の金田一京助や民俗学者の伊波普猷いはふゆうなどさまざまな知己を得た北斗は、金田一から紹介された『アイヌ神謡集』(知里幸恵)に強く影響を受ける。さらに、バチラー八重子のことを知ると、その影響から本格的に短歌を書き始める。また、在京中には大勢の人から知遇を得るようになるが、次第にアイヌとしての自己の地位が高まっていくことに深く苦慮し、民族復興の使命を痛感し、北斗は北海道へ帰る決意を固めた。

我アイヌ 此の表白に恥じなかれ 
             同じ日の本 御子にしあれば

3.「コタン」を巡って
 1926(大正15)年、北斗はウタリのために生涯を捧げる決心をし、北海道へ戻った。登別の幌別教会にバチラー八重子を訪ね、その際知里幸恵の弟の真志保にも会った。その後、平取教会を訪ねて、幼稚園の手伝いなどをするも、人間関係にも悩むようになると、故郷の余市に戻る。余市で漁業や売薬行商を行うかたわら、胆振いぶりや日高地方をまわってウタリとのネットワークの形成を試みる。同じ頃、新聞や雑誌に短歌や昔話を投稿するようになり、病気療養の中、余市のアイヌ文化を調査するも、1929(昭和4)年に27歳で亡くなった。

 森竹竹市  ~ウタリと自身に捧げた人生~

 森竹竹市は1902(明治35)年、白老しらおいに生まれた。青年時代より俳旬を嗜んだ竹市は、社会生活の近代化の過渡期に生まれ合わせた「アイヌ青年の心情を、赤裸々に告白」した「若きアイヌの詩集 原始林」を1937(昭和12)年に出版する。竹市は自らの生活を詠むことで、偏見と闘い、民族の誇りを語り、自立と復権を訴え続けた。

1.「筑堂」としての出発
 竹市は、母方の祖母タリキンの母語がアイヌ語だったことから、アイヌ語と日本語のバイリンガルとして育ち、白老のアイヌ学校に通った。通学する路上で和人の子どもらにからかわれ、校長先生に「腕力ではなく、頭で勝負せよ」と言われた。漁業手伝い、郵便局配達員を経て駅員の採用試験に合格した1923(大正12)年頃から、「筑堂」という俳号で俳句と短歌をつくり、生活に即した歌を多く詠む。国鉄を退職した翌年の1937(昭和12)年、「若きアイヌの詩集 原始林」を自費出版する。その年は、竹市が自ら強く訴えたアイヌ学校の廃止が実現された年でもあった。

2. 民族の復権と伝承のなかで
 竹市は、戦前よりアイヌ民族の自立を訴え、民族差別に抗してきた。1946(昭和21)年、北海道アイヌ協会常任監事に就任し、その機関誌『北の光』で「先住人」であるアイヌ民族の尊重を主張した。「筑堂」として詩や短歌などで民族性を表現する一方で、白老の古老たちが語った「ウェペケル」などの民話の記録を行った。昭和新山アイヌ記念館と白老民俗資料館の館長を歴任し、来訪者へアイヌのくらしを紹介するかたわら、アイヌ民具の収集や若手の伝承者の育成を行う。竹市は戦後から晩年まで、アイヌの歴史・文化の理解の重要性を訴えながら、民族の復権に精力的に取り組んだ。

3. ウタリに捧ぐ嬉しさ
 竹市は、1970(昭和45)年に白老民俗資料館の館長を退職した後、「しらおい文芸』の同人となり、川柳、短歌、俳句を発表する。また自宅付近に書斎兼来客応接用の「憩の家」を新築し、「ゆうゆう自適の生活」を送った。竹市は、20世紀の激動の中、自らの生活を詠むことで偏見と闘い、民族の誇りを語り、自立と復権を訴え続けた。この姿勢は、没後翌1977(昭和52)年に出版された遺稿集「レラコラチ 風のように」の中でも表現されている。

川に鮭 山に熊なく 耕すに
        土地なきウタリは 何處にゆくのか

 近代アイヌ文学とアイデンティティ

 近代のアイヌ文学は、アイヌ民族が置かれた社会状況を反映したものだ。アイデンティティの観点からみれば、近代のアイヌ文学者たちは、同化を強いられる一方で、「滅び行く人種」という通念や差別の現実に抗い、「日本人」や「和人」になることと、「アイヌ」であることとの間で自らの生きる道を模索してきた。
 近代を生きたアイヌ民族は、日本人への同化を迫られながらも、言論活動や創作活動を通してアイヌとしての誇りを守ろうとした。その複雑な内面こそが、バチラー八重子、違星北斗、森竹竹市らの創作をはじめとする、アイヌ民族による言論及び文学にみられる多様な表現を生み出してきたといえる。八重子は、ふみにじられてきた「ウタリの名」を取り戻す願望を詠い、北斗は「吾アイヌ!」と叫んだ。竹市は、詩を通してその「血」が永遠に残ることを高らかに断言した。

 今回、アイヌの代表として、バチラー八重子、違星北斗、森竹竹市という3名の偉人を紹介したが、考え方も生き方も素晴らしい。ウタリという自分の同胞、仲間、友を大切にする生き方を、日本人である私たちも見習い、学ぶべきことがたくさんあるのではないだろうか。アイヌの人たちはウタリをとても大切にしているが、私たち日本人はどうなんだろうか。徳川家康の時代、アイヌの人たちが自然とともに暮らし、仲間を大切にする民族であったからこそ、徳川幕府の大和民族に侵略されたのだとすれば、場合によってはそれが逆転し、私たちがいまのアイヌのように差別をされ、言語や文化を奪われていたのかもしれない。

 

私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。