ナラティブ、自己愛、目を合わせるということ。
まずはオススメの本を紹介する。
人と人との間に起きるコミュニケーションの多様な問題について、なぜ起きるのか、どう解決すべきかを、シンプルなひとつのモデルで示した良著だ。
この本には以下のようなことが書かれている。
・人はそれぞれ異なる「ナラティブ」を持っている
・「ナラティブ」のズレが組織課題を生み出す
・互いの「ナラティブ」間に橋をかける必要がある
この「ナラティブに橋をかける」ための具体的な対話手法が、実践的かつ面白いので、ぜひ読んでみてほしい。
一方、今回このnoteでは「ナラティブ」とは何かについての思考を通じ、現代人の中に蔓延りやすい「病理」について深掘りしてみたいと思う。
組織マネジメントへの示唆として。
あるいは、あなたが日々を生き抜くための、小さなヒントとして。
ナラティブという概念
ナラティブとは、ストーリーとの対比でよく語られる概念である。
2010年代前半にはゲームの世界で流行り、2010年代後半にはマーケティングの世界で流行ったので、バズワードのようになってしまっていて、安易に使うことに躊躇いのある人も多いだろう。
ストーリーを「物語」、本のようなものとしてイメージするなら、ナラティブは本を読んだ人の語る「語り」という形で姿をあらわす。
主体は受け手にある。だからこそ、ストーリーは終わるが、ナラティブは終わらない。
どういうストーリーを伝えるかより、ナラティブを大切にしよう、というのがいろんな分野で声高に叫ばれている。ああ、またナラティブか、とそのたびに思うのだが、分野を越えて流行るのは、なんだかんだ本質的な概念だからなんだと思う。
人はみな違う世界を見ている
ストーリーには限界がある。なぜなら人はみな、それぞれの人生経験に則って、違う世界を見ているからだ。
逆転クオリアという思考実験がある。人は赤色を見たときに、みんな同じ感覚を得ているわけではないかもしれない、という有名な話だ。
色というシンプルな事象ですら持ち上がるこの議論は、より複雑な「ストーリー」に対しても、確実に存在すると言える。
育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイ、とかつて誰かが歌っていたように、人それぞれにナラティブがあり、人それぞれに見えている別々の世界がある。
例えるなら暗記用の赤シート
かつて緑のペンで文字をマーキングし、赤いプラスチックシートを被せて隠してながら暗記をした。
いわば人はみな、違う色の暗記用シート越しに世界を見ているのである。
プロジェクトに立ち上がった課題、組織に立ち上がった問題から、男女間の恋愛に至るまで、すべての出来事はストーリーだ。そのストーリーをみんなが違うシート越しに読んでいる。だからこそ、個々人で解釈が異なり、意見の相違が生まれるのだ。
自分の所属するゲームスタジオ、Wright Flyer Studiosで「アナザーエデン」というゲームのメインシナリオ、演出を手がける加藤正人は「なるべく簡易な言葉でユーザーを遠いところまで連れて行きたい」と語っている。
簡易な言葉にこだわるのは、異なるナラティブを持つ多様な人たちが、様々な色のプラスチックシート越しにストーリーに触れたとしても、全てが伝わるようにという配慮だろう。
一方で自分は「消滅都市」というゲームのシナリオを手掛けながら、違う色のシート越しに物語を見ることで、違った結果が立ち現れるようにしている(他者と異なるプラスチックシートの存在に気づけてもらえたら嬉しい)
ナラティブとは自己愛の写し鏡
この世界の見え方を変えるプラスチックシート、ナラティブは、多くの場合「自己愛」によって生み出されている。
成功をより強く実感したい気持ち、自分の成果を彩りたい気持ち、あるいは傷つきたくないという気持ち、何かを守りたいという気持ちが、それぞれのナラティブを生み出すのだ。
そんな事例のひとつとして「非定型うつ」がある。
極端な事例ではあるが、うつと無関係の人にとっても、重要な示唆が込められている記事だと思う。
ここには過度な自己愛から他人や環境を責めてしまうという事例について書かれているが、この自己愛を「チーム愛」「プロジェクト愛」「組織愛」「会社愛」などに置き換えることもできるし、その場合、ナラティブは牽引力のための重要な素質にすらなり得る。
上記記事の元になっている本では、スティーブ・ジョブズの強烈な自己愛が指摘されている。自己愛は推進力でもある。無闇に否定するものでもない。
が、ナラティブという「世界の見え方を変えているプラスチックシート」の存在に気づき、自覚するのは大切なことだと思う。
ナラティブを客観視する
何かがうまくいかないとき、その理由のほとんどは「自身のナラティブを客観視できていない」ことにあるのではないか。
誰かと深刻な喧嘩をしたときは、自分のナラティブに目を向けてみれば理由が明確になるかもしれない。
意見が通らないときは、意見そのものに問題があるわけではなく、自分のナラティブが相手のナラティブとぶつかっているために、伝え方でミスをしているのかもしれない。
事業上の課題に解決策が見出せないときは、愛する事業をプラスチックシート越しに見ているから、本質的な問題に気づけていないのかもしれない。
冒頭に紹介した本の中にもあるのだが、自分自身のナラティブはとても大切だ。これまで生きてきた人生そのものなのだから、捨てる必要は絶対にない。
ただ、一度ナラティブを脇に置くことで、気づけることは多い。
好きなアイドルの書いた自叙伝の中に、こんな表現がある。
今あなたがもし自分は一人きりだ、誰も分かってくれない、そんなふうに思っているとしたら少しだけ顔を上げて周りを見てください。あなたがただ目を合わせようとしないだけで、あなたと必死に目を合わせようとしている誰かはすぐ近くにいるかもしれません。
だから、迷ったり、悩んだりしたときは一人の世界にこもらないでまず周りを見てほしいです。
目を合わせるということ
ナラティブに橋をかけるとは、相手と目を合わせるということ。
相手の目を見るということ。
そして、相手の目の中に映る、自分自身を見るということだ。
あなたの目の中に映る私の姿は、いろんなことを教えてくれる。ひどくワガママな自分、勝手な自分、気まぐれな自分、残酷な自分、楽観的な自分に悲観的な自分… 他者のナラティブで解釈される複数の自分の総体こそが「自分」である。
同時に、人が、事業が、組織が、常に単一のナラティブからしか認識できていないとしたら、それは非常に危険なことだ。
世界は多様性に満ちている。それは本当に幸せなことだ。
多様なナラティブと強固なナラティブ。その双方を柔軟に行き来する視点を持つことで、世界を生き抜いていく力を身につけていきたい。
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