ザ ブック オブ マッチズ 6/16
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即席の親子牛は、あれから三日間コラルに置いて干し草を食わせたら、案の定うまくいった。よし。神に感謝したい気持ちだったが、俺は教会に毎週行くような人間でもない。
父親の顔が朧げに思い浮かんだが、即座に頭の中から追い出した。
またトビーと馬に乗って、二頭を牧草地に戻した。
昼食時にダグから電話があった。
「リアンはどうなった」
俺はすぐに本題を促した。
「さっき帰ってきた。保安官に伴われてな」
「無事なのか」
「ああ、無事だ」
「すぐ行く」
俺はその先をダグにしゃべらせることなく電話を切ると、トビーに言った。
「ダグのところに行ってくるから、今日はここでできることをやってくれるなり、帰るなりしてほしい」
彼は、なにも質問することなく、「大丈夫です。なにかしておきます」と答えた。
ダッジ・ラムで到着すると、俺は呼び鈴を押すことなく、扉を開けて中に入った。
保安官のクルマは敷地内に見当たらなかったので、もう帰ったのだろう。 ホイットマン家の自動車のほかに、はじめて目にするクーペが一台あった。
俺はリビングルームの前ではじめて壁をノックした。
気づいたダグが笑顔で俺をカウチに招いた。向かい側には、リアンと黒人の少年が座っていた。 ふたりは揃って、膝の上にLAドジャースの帽子を置いている。
「何事なんだ。俺はてっきり血の海を想像して飛ばしてきたのだが」
「ブレット、お前にも心配かけてすまなかったが、このふたりは、ロスエンジェルスまで行って野球を観たかったんだとさ」
拍子抜けした俺は、いまダグが言ったことを頭の中で繰り返して、ようやく意味を飲み込んだ。
「カリフォルニアまで?」
「あたしはディズニーランドに行きたかっただけなんだけど」
悪びれもせずにリアンが口を挟んだ。まっすぐな栗色の髪を指で耳にかけ、くっきりとした力強い眉毛をくいっと上げてみせた。
ダグがリアンの傍らの少年を手で示した。
「紹介する。こちらがリアンのボーイフレンドのドワイトだ。ドワイト、彼はブレット・マクナマス。俺の友人で、近所の牧場主だ」
俺はダグの隣ではなく、彼と高校生たちを横に見る位置にある背もたれのない椅子に腰を下ろした。
「で、俺がこいつを撃ち殺せばいいのか」
冗談とわかるように、わざとらしいくらい真剣な低い声で言ったら、ドワイト少年はビクッと反応してこちらを見た。ダグが笑った。
「うちの主人をレイシストみたいに言わないでくれる」
サンドラがコーヒーのマグを持ってきて、俺の前に置いた。そして、彼女はキッチンのテーブルについた。
ダグが掻い摘んで話したところによると、ドワイトは野球に夢中でメジャーリーグの試合を観たかった。リアンはディズニーランドに行きたかった。「LAに行けば一挙に両方叶えられるじゃん!」と話題が盛り上がった勢いで、後先も考えずに翌日には出発したそうだ。
ところが、ダグは捜索願を出したし、ドワイトの家もしっかり通報していたそうだ。二日半かけてLAに到着し、ディズニーも野球観戦も希望を達成できたのはよかったが、帰路のハイウェイで、ライセンスプレートから難なく警察に発見されたという。ひと晩拘留されて、警察にエスコートされつつのご帰還と相成った。
「初日は俺も怒り狂って、ブレット、お前を連れ回して、ビリングスくんだりまで探しに行った」
「ああ、よく知ってる。ここで明け方に寝た」
俺はダグがいまいるカウチを指さした。
「どうもすみませんでした」
おそらくすでに十二回も謝っているのに、俺という新しい登場人物が出てきてしまったために、哀れなドワイトくんは十三回目の言葉を口にした。
俺は彼に微笑みかけた。ダグはドカッと背もたれに体を預けた。
「だけど、一日二日と時間がたつと、生きて帰ってきてくれるならそれだけでいいと思い直したんだ。『リアンを無事に帰してくださるなら、ドワイトをブチのめしたりしません』と神に祈ったよ」
「ここで言う神とはわたしのことよ、ブレット」
サンドラが補足した。「わたしが説得したの。あんたが刑務所に行ったら家族はどうするのって。無責任なことはさせないわ」
「きみはダグにとっての女神だよ、サンディ」
俺はサンドラのほうを振りむいて賛辞を送った。
「そんなこんなもあって、保安官から連絡があったときは膝から崩れ落ちそうなほど安堵したよ。それにな、ふたりがお揃いのドジャースの帽子かぶって帰ってきたところを見たら、こいつらにとっては一生の思い出をつくってきたわけだろ。キラキラした青春の輝きに俺は打ちのめされちまって、怒るに怒れないんだよ。わかるか、この気持ち?」
「わからんが、あんたが英語を話していることだけは理解した」
確かに、目の前に座る黒人少年は、俺たちがテレビや映画で見るような、ダボダボの服を着て、ジーンズを尻に引っかけるようにして履くようなタイプではなかった。首に金色のネックレスこそしているが、話す英語も黒人特有のそれではない。野球選手らしい、引き締まった体つきをしていて、物腰もインテリジェンスを感じさせる。
俺たち牧童と農家が、インテリジェンスを語る資格などハナからあるわけもないが。
これが「ヨウ! 今年のじゃがいもの出来はどうだいメーン」みたいなブラザーがのこのこやって来たらダグの反応もちがったのかもしれない。さっそくショットガンを抜いたかもしれない。
ともかく、ダグも俺がいま思っているようなことを感じたのではないか。
ただ、これをもって、俺たちの中にレイシズムがないという証にはならない。むしろ、俺たちの心のうちには人種に基づいた偏見と拒絶感、すなわち差別心があった、ということなのだ。自分たちの文化に染まった異民族なら許容するが、異なる者は受け容れられないという排外性の存在は否定できない。
ここモンタナ州には七つの先住民居留地がある。白人が彼らの文化を殲滅してしまった罪悪感から、彼らの独自性を守るために地図から切り分けた場所だ。こういう場所を未来永劫残すほうが正しいのか、なくしてみんなでいっしょにアメリカ人になったほうが善いのか、では、アメリカ人とはなんなのか、俺にはわからない。わかるはずもない。
少なくとも、俺にとってのアメリカは、ほぼBM牧場とおなじくらいの大きさなのだ。
「きみたちは、弟のベンになにかお土産でも買ってくるべきだったな」
「気が利かなくてすみません……」
ダグが機嫌よくなにか話していた。ドワイトもいくらかリラックスした様子で、マグを片手に会話している。
「きみは野球選手なんだってな」
俺も彼と話してみた。
「はい、二塁手をやっています」
「バッティングだってなかなかなのよ」
リアンがドワイトの膝に手をやって言った。
「ドジャースの二塁手は誰だった」
「ジョディ・リードです」
ドワイトは即座に答えたが、俺にはドジャースのことはよくわからなかった。
「ドジャースファンなんだな」
「いえ、そうでもないのですが……」
ドワイトはドジャースの帽子を手で弄んだ。「なんとなくリアンに、このLAと書いた帽子をプレゼントしたくて。"LeAnn"はLとAが大文字ですから」
「まぁ、素敵じゃない」
サンドラが甲高い声を上げた。
「いい話を聞かせてもらったよ。では俺は牧場に戻る。仲良くな」
俺は若者ふたりを交互に見て立ち上がった。
「ブレット、すまんな。また改めてゆっくり」
「うちのブランディングは明後日だからな」
ダグが手を振った。サンドラが見送りにやって来たので、俺は小声で言った。
「隠した拳銃は、もう戻してもいいかもな」
サンドラは俺だけに見えるように笑った。
「いえ、隠したままにしとくわ。いつまた酔っぱらって郵便ポストを撃ち抜くかわからないから」
そして、彼女は舌を出した。
(つづく)
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