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ザ ブック オブ マッチズ 4/16

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 明け方に雨が降ったようで、空気に湿り気が感じられ、常に露出オーバーの写真みたいに薄ぼんやりした砂色の大地がいつもよりくっきりと見えた。アスファルトにはところどころに雨の染みが残っているが、空はサンドラが履いていたジーンズのようなブルーだ。

 何度もあくびをしながらダッジ・ラムでBM牧場に帰った。八時をすこし過ぎていて、すでにトビーはやって来ていた。
「珍しいですね、もうお出かけとは」
「話せば長い」
 宣言通りに俺は長々と話して、せいぜいゆっくりとキャメルを吸った。

「今日は、昨日手入れをしたスワーサーで草を刈るつもりだったが、今朝雨が降ったからな。もうしばらく待てばもっと牧草が伸びるはずだ。そして、乾いたときにやろう」
 BM牧場は、道路から砂利敷きのドライブウェイを四分の一マイルほど入ると、右手に俺の家がある。その奥にショップと倉庫が並び、向かい側のやや離れたあたりにアリーナがある。
 これは体育館のような広さの建物で地面は土だ。馬の調教をしたり、天候の厳しいときには連中を非難させたりするのに使う。馬の鞍や手綱やブーツにつける拍車などの馬具も、ここに保管している。

 その右手奥の小高い場所にブルーハウスが佇む。
 ブルーハウスというのは、俺が通称としてそう呼んでいるだけで、実際は空き家である。
 父親が、フライフィッシングの毛針を手づくりしたり、ハンティングの道具をメンテしたりと、趣味の部屋としてすこしずつ建てようとしていたものだ。結局、屋根と外壁だけ築いて中身は手をつけずに遁走してしまったから、なににも使いようがないまま、誰にも顧みられることもない道端の空き缶のように、そこにある。

 こういった建築物に囲まれた広場のような空間は芝生が敷いてあり、犬を遊ばせたり、ダグとその家族と肉を焼いたり、端にあるドラム缶でつくった小型の焼却炉でゴミを焼いたりする。
 牧草地は生活圏であるメインの牧場を北、西、南の三方から囲むように広がる。西側の牧草地に入る手前にコラル(囲い)があり、牛をトラックに載せてオークションで売却するために運ぶ出口に使う。

 いま、そのコラルには一頭の仔牛を匿っている。
 母牛たちは春になると一斉に子を産むが、ごく稀に育児放棄してしまう者がいる。乳を飲ませないと生きていけないし、親牛といっしょにいないとコヨーテやクーガーなどの獣に狙われる可能性が高まるので、こうして隔離しているわけだ。
 俺たちはショップの中にあるキッチンスペースに入った。人間用のものより三倍は大きい哺乳瓶の中に粉ミルクをつくって、仔牛に与えた。
コラルの木柵の隙間から哺乳瓶を差し出せば、自分で食いついてくる。腹を空かせていた仔牛は、ヨダレを垂らしながら一気に飲み切った。
 これから、ピックアップトラックで牧場の見回りに出かける。ボーダーコリーのダスティとターボの二匹が、いっしょに行きたがって、アリーナに隣接したそれぞれの檻の中で騒いでいる。トビーが来たら、まず二匹にエサをやることが日課だ。

「じゃあ、お前らも来い」
 二匹は喜び勇んで飛び跳ねた。ダスティはいくらきれいにシャンプーしても、すぐに土の上を転げまわって土埃だらけになるからそのように名づけた。ターボはその名の通り、疾走するときのスピードがものすごい。
 二匹の頭を撫でてから命令すると、素直にピックアップの荷台に飛び乗った。

今年生まれた仔牛と母牛がいる二十番と二十一番、二十二番の区画を巡る。
 トラックのグローブボックスから噛みタバコの丸い容器を取り出して、ひとつまみ口に入れた。唇の裏側と下の歯茎の間に指で押し込み、舌でかたちを整える。そうやってフレイヴァーとニコティンを味わうものだ。ツバは飲み込まず、開け放したままの窓から吐き捨てる。
 容器を差し出してトビーにも勧めてみたが、「結構です」と、脱ぎたての靴下でも見るような目つきで断られた。
 よほど我慢できないとき以外、基本的には牧草地で紙巻タバコはやらないことにしている。乾燥したこの土地で、火が草に燃え移ったら手がつけられないことになるからだ。
 トビーがゲイトを開けて、木の支柱を持ったまま待つ横を抜けてトラックを牧草地に入れる。母子のペアを毎日すべて数えることはできないが、異常がないか確認するために、ゆっくりと各区画の全体を見て回る。
 朝のパトロールの時間は、その日一日の作業予定を頭の中で整理するとともに、今日やるべきことを発見する契機にもなる。

この日もそうなった。
 牧草地の一区画は一辺が半マイルで面積は四分の一平方マイルだ。二十番区画の東端から、二十一番を挟んで、二十二番の西端までは一・五マイルの距離がある。往復分とジグザグに巡回をする分と合わせて、だいたい六マイル程度の距離をのんびりと走ることになる。
 凹凸や隆起した箇所、落ち窪んだ場所はありつつも、西の彼方の山岳地域へなだらかに登っているので、見晴らしはよい。
「ブレット、あそこ見てください」
 トビーが、こちらも開けた車窓から右前方へ向けて指を突き出して言った。「ちょっと気になります。黒い点が見えますが、動きません」
 そちらへピックアップトラックを向けると、確かに彼が言った通り地面に黒いものが視認でき、三〇フィートほど離れたあたりに牛たちが扇状に散らばって様子を見ているのがわかる。俺はガスペダルを踏みこんだ。
 十フィートほど手前で停車すると、もう明らかだった。荷台の犬たちも異変を感じ取って、鉄板に爪を立ててせわしなく動いている。

俺はピックアップを後進させてターンすると、荷台側をそいつに近づけた。
 トビーと同時に降車した。二匹も飛び降りてきた。車両を転回させたことで舞い上がった土煙が俺たちと二匹を包んだが、やがて北からの風がそれを吹き払った。
 俺たちの足元にあるのは、食い散らかされた仔牛の死骸だった。

 柔らかい下半身のほうを中心に、尻から腹まで食い破られ、腸が露出していた。ダスティとターボが鼻を寄せ合って血のにおいを嗅いでいる。
 コヨーテかクーガーか不明だが、はじめに首に牙を立てて息の根を止めたあとにゆっくり食事に及んだのだろう。首に近い背中に手を当てると、まだ微かに体温が感じられた。
 俺はピックアップのリアウィンドウに掛けてあるライフルを取り出すと、後部タイヤに足を乗せて、荷台によじ登った。
立ったままレミントン・モデル7を構えて、辺りをぐるりと一周眺めまわした。害獣が潜んでいそうな木立や岩陰は、スコープを覗いて入念に目を凝らした。

「ターボ!」
 トビーの叫び声にスコープから目を外した。南西の林に向かってターボが、そしてそれにつづいたダスティが駆け出していた。
「トビー、乗れ!」
 地面に飛び降り、ライフルを後部座席に置いて、ピックアップトラックで二匹を追った。
 ターボは獲物が見えているかのように真っすぐに疾駆した。林はこの二十二番区画のさらに南西に位置していて丘の麓にあたる。
 ターボは三本の鉄条網で行く手を遮るフェンスを軽々と飛び越えていった。ダスティは、身を低くして一番下のワイヤーを潜った。
 俺はブレーキを踏むと、トビーがフェンスを開けるのをもどかしく待った。林に近づくと、そこは岩場なので、ピックアップトラックを手前で停めて、足で二匹を追うしかない。後部座席からレミントン・モデル7を取り、シートの上にあった銃弾を小箱からひと掴みしてジーンズのポケットにねじ込んだ。
 両手に抱えた長い銃身とその重みで走りづらい。若いトビーが先をいく。
「トビー! そいつを見つけても、犬たちを近づけすぎないでくれ」
 相手があまりに巨大だった場合、犬が二匹でも返り討ちに遭うことは充分に考えられる。

 カウボーイブーツの底で岩場を踏みしめて、二歩三歩と登り、木々に分け入る。こういうことがあるから、俺はラバーソールのブーツを履く。
 ターボとダスティが吠えるのが聞こえる。
「深追いするな! そこにいろ」
 トビーが二匹に呼びかける声だけがこちらに届く。
 地面から飛び出した木の根に躓かないよう注意して先を急ぐ。岩場を下って、再び登ると木立の中に彼らの姿があった。
 一本のポンデローサ松の根本で、二匹が上方を見上げ、トビーがその方向を指さしてなにか言った。咆哮が激しくて言葉は聞こえないが、そこに獲物がいることはわかった。

 地面から五〇フィートの枝に、クーガーがいた。マウンテンライオンとも呼ばれるネコ科の大型肉食獣だ。
 こいつはでかい。灰色の胴体はここから見ただけで、四フィート半はありそうだとわかる。
 俺はレミントンの中に銃弾が込められていることを確認して、トビーに手で「離れておけ」と指示した。まわりの木の枝が邪魔になるため、はっきりと狙える位置を探った。
 ここだ、という場所に陣取ったが、仰角が大きい。かなりのけ反らないと銃口を向けづらいが、射撃の衝撃を考慮すると、体勢がやや厳しい。俺は地面に腰を落として、寝そべるような姿勢で背中を樹木の幹に預けた。落ち葉と土の上に広げた両脚をV字にして、安定させた。
 クーガーは眼下の犬たちを見下ろしている。が、こちらを振り向きそうな素振りを見せた。俺はその瞬間に引き鉄を引いた。
 二四三ウィンチェスターの弾丸は、下方からやつの右胸をななめに撃ち抜いた。おそらく心臓まで達したのではないか。小さく飛び上がったクーガーは、さらに上へ逃れようと幹に前肢を伸ばしたが、数秒以内にだらりと力を失い、落下した。

 巨体が枝をバキバキと折る音、そして地面に衝突した衝撃音が伝わってきた。
「犬を押さえてくれ」
 トビーが、ターボとダスティの首に腕を回して、まだ近づかないよう制止した。まだ息があったら爪の一撃で鼻面ごと削がれてしまう。
 レミントンを構えたまま、落ち葉を踏みしめて獣に近寄る。
銃口で頭を小突いたが、確実に死んでいた。体重九〇ポンドくらいありそうな立派なやつだった。薄く開いた口からナイフのような牙が覗いている。
「ターボ、よくやった。ダスティもえらいぞ」
 俺は二匹の頭を掻いてやり労った。

 トビーが前脚、俺が後ろ足を持って、地面を引きずりながらクーガーの亡骸をピックアップトラックを停めたところまで運び、荷台に載せた。そして、こいつが喰らった仔牛の死骸の地点まで戻った。犬たちは走って戻ってきた。先刻とおなじように、トラックのテイル側を仔牛に寄せた。
 さっきまで遠巻きにこちらを見ていた牛たちはすでに散らばって、何事もなかったように牧草を食んでいる。しかし、一頭だけじっと見つめる牛がいた。あれが母牛だろう。
 俺は静かに歩み寄って耳のタグを確認した。黄色いプラスティックの札が左耳につけられていて、一一六と番号が書かれていた。

 ピックアップトラックのテイルゲイトを開けて、死んだ仔牛もクーガーと並べて荷台に置いた。生きている犬たちもそこに乗った。
「食ったりするなよ。おとなしくしておけ」
 俺は犬に言い聞かせると、ライフルを後部ウィンドウのラックに戻し、二十二番区画を出た。
「ナイスショットでした」
 トビーが興奮したような面持ちでこちらを見た。
「一発で仕留めたな」
「ブレットは、ハンティングもするのですか」
「父親に連れられてたまにした。いまは、今日のような必要があるとき以外やらないよ」
 トビーはクリスマスプレゼントでも見るように、荷台に横臥するクーガーを後部ウィンドウ越しに見やった。
「クーガーは持って帰ってどうするんです」
「誰かにたのんで、絨毯にでもしてもらおうか。仔牛の損失には及ばないが、いくらかにはなるかもしれない」
「仔牛のほうは」
「こいつには、まだ役割がある」

(つづく)

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