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僕たちのフィルダースチョイス 17/17

 生徒たちを駅まで見送ったあと、大人たちは駅前の「あの店」ではなく、その日は雑居ビルの三階にあるバーに行った。小一時間ほど、特別授業をやり遂げた満足感と、塁が去ってしまった寂寥感に浸ってボソボソと話した。

「クゲ、お前の一馬の話、よかったよ。ほんまに、一馬にもここにいてほしかったよ……」
 だいぶアルコールのまわったマガジンは、思い出してまた泣いた。
「あそこは本塁やんな、やっぱり。だから、あれはクゲのエラーじゃなくて、俺たちみんなのフィルダースチョイスであり、エラーだったんやで」
 ゴンドーフがクゲの肩をポンと叩いてから、グラスの中で氷に溶ける琥珀色を見つめた。
「俺が試合で何回悪送球してる思てんねん。心配せんでも、俺がお前でもやっぱりやらかしてるで」
 マガジンが涙目のまま、自慢にもならないことを偉そうに言った。

「全員で勝負に出て、派手に散った。清々しいやないか。二十年たってみれば、なにも後悔することなんかないよ」
 田辺はなんでこの話をもっと以前にできなかったのか、とクゲに対して申し訳なく思った。でも、これだけの時間が必要だったのだ。
「今日はいろんな意味で、肩の荷が降りたよ。今度、一馬くんの墓参りに行こうや」
「そうやな」
 クゲの提案に一同が首肯した。 

     27

 田辺は、酩酊による危うい足取りで自宅マンションまで帰った。
 通常の業務から特別授業、送別会、そしてバーと、長い一日であったが、まだ夜十時前だった。
 靴を脱ぐと、ちょうど風呂から上がったパジャマ姿の華恵が目の前にいた。
「あら、おかえり」
 田辺はなにも言わずに、華恵を腕の中に抱き入れた。
「ちょっと。どうしたの。……酒くさいし」
「うん」
「なにかあったの?」
「うん。いや、ない」
 華恵はいいにおいがした。田辺が好きだったにおいだ。華恵のことが好きだった。

「華恵さぁ」
「うん」
「僕な」
「なによ」
「子供がほしい」
「あなた、酔っぱらってるんでしょ」
「うん。それはそれとして、子供がほしい」
「どういうことよ」
 華恵は嫌がる様子はなく、かつてそうしたように密着し合った自分たちに照れているのだと田辺にはわかった。

 華恵の首筋にキスをした。
「あ……」
 華恵が小さく震えたのが、田辺の体にも伝わった。田辺の腰に華恵が腕をまわした。

     28

  西荻窪の2LDKに、家具と段ボール箱を運び終えた。
 まだカーテンのない窓から差し込む陽光が、床や壁にあたたかく反射していて、リビングルームに立った早希子は「暖房は陽が落ちてからでいいかな」と思った。
「塁、ベッドは明日届くから、今日はお母さんとお布団で寝るけどいいよね?」
 物珍しげにキッチンの蛇口から水を出したり止めたりしていた塁は「いいよ」と短く答えた。

 以前に住んでいたのは世田谷区の祖師谷だったが、西荻窪により広くて家賃は安い、手頃な物件を見つけることができた。
 帰国してから、息子とこれからの生活を話し合った際、早希子は塁に小学四年までいた学校に戻るのと、また新しい学校に行くのとどちらがいいか訊いた。塁は後者を選んだ。
 深くは尋ねなかったが、やはり前の学校にはうまく馴染めなかったのだろうと想像した。あのとき、塁はひとつだけ質問してきた。
「おばあちゃんちにはどっちが行きやすい?」

 京都まで行くのに、西荻窪か祖師谷か、距離的には微差みたいなものだが、新幹線に乗ることを考えればJRの西荻窪駅から中央線で一本だったので、そのように答えた。
 女としては持ち物が少なめの早希子と塁の荷物では、段ボール箱の数も知れていた。まず塁のものからさっさと開けてしまおうと、塁の部屋になる玄関横の小部屋に入った。早希子は〈塁 おもちゃとか〉と、塁の字で手書きされた箱をカッターナイフで切って開けた。

 そこには見慣れない、黒いグラブが入っていた。
 一瞬、おじいちゃんに買ってもらったのかしら? と思った。
 グラブに触れるなんて何年ぶりだろう、と懐かしい気持ちが沸き起こり、それを手にした。グラブの中から、ボールがこぼれ落ちて、フローリングの床にゴンと硬い音を立てて転がった。
「硬式?」
 早希子はいぶかしんで拾い上げた。ひどく茶ばんだ古い硬式球だった。
 よく見ると何人ものサインがしてある。

「え」
 マガジン、権藤くん、藤原くん、田辺くん、それに、中田くんまで……。早紀子の心に思い浮かぶみんなの姿は、土で汚れたユニフォームのままだった。
 早希子は開けたままの扉の方を振り返った。宝物のような過去の記憶が、現在の宝物にカチリと音を立ててつながったような不思議な感覚があった。
「ねえ、ちょっと、塁! ルイー!」

(了)


【参考文献】
米長邦雄『人間における勝負の研究』祥伝社、二〇一三年
高井浩章『おカネの教室』インプレス、二〇一八年
姫野桂『発達障害グレーゾーン』扶桑社新書、二〇一八年
田中茂樹『子どもが幸せになることば』ダイヤモンド社、二〇一九年
澤宮優『世紀の落球』中公新書ラクレ、二〇二〇年 ほか

高校の野球部については、アートディレクターの上田豪氏と、紀行作家にして水産系商社にお勤めの田所敦嗣氏に、
アメリカのトレイルについてはハイカーの鈴木拓海氏にお話を伺いました。ありがとうございました。

【あとがき】
最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。
まさか、タダで読んで帰るつもりじゃないですよね。
おもしろかったら、お、おカネをください…

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