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ザ ブック オブ マッチズ 10/16

 俺は汗をかいたシャツを着替え、マッチをジーンズのポケットに入れた。そして、廊下の壁にかけられた写真フレームの中からひとつをはずした。
 生前の母親が、家族の写真をいくつも飾っていたうちのひとつだ。彼女は父親が消息を絶ってからも、写真や彼の残していったものには一切手を触れなかった。
 写真フレームの裏のつまみを捻って、写真を取り出した。父親と母親がいっしょに写った、比較的新しいものだ。新しいと言っても十五年以上は経っているが、仕方ない。
 写真の中の母親は微笑み、父親はすこしまぶしそうな表情をしているが、これが彼らしく感じたし、上半身まで写っているから、体形もわかりやすい。

 ダッジ・ラムを南へ走らせた。
 助手席に置いた紙きれを見た。さっきの電話をしながらメモしたものだ。
ローレンス通りの4055。
 マッチに書かれた「L710」と同じ数字を期待したが、ちがった。
しかし、ローレンスの頭文字はLだ。ローレンス通りに710という住所があるのかどうか、通りをゆっくりと流しながら確認したが、結論としては、そういう住所はなかった。

 コブウェブは、町の西の端にあった。店は通りの角にあり、裏手に砂利敷きの駐車場があったが満杯だ。俺は道路脇にトラックを停めた。
 店の看板には、その名の通り、巨大な蜘蛛が巣を張るのがネオンサインで表現されている。壁面にはそのほか、ブッシュ、バドライト、クアーズ、ハイネケンなど、ビールのロゴはなんでもござれだ。
 窓は、建物の上のほうに明かり採りが横長にあるだけで、中の様子は窺えない。
 防音加工がされているのか、やけに重たいドアを引くと、空気の圧力に押し出されそうになった。

 中は思いのほか明るく、ハードロックが大音量で流れている。入って左手にL字の長いバーカウンターがあり、テーブル席が六つほどあった。奥にはビリヤード台が三つ並んでいて、うちふたつは客で埋まっていた。客層は、俺と同じくらいの年齢層か、より若い連中だった。
 刑事モノの映画じゃあるまいし、こういうとき、どう振る舞っていいのか考えてこなかったのを悔いた。入口で立ち尽くしていると、タンクトップを着て、盆を持ったウェイトレスに、カウンターかテーブルか訊かれた。
「カウンターでたのむ」
 ほかに三人の客がいるカウンター席に着くと、カウンターの向こうには黒い襟付きシャツの女バーテンダーが動き回っていた。真っすぐな金髪をうしろでひとつに束ねている。

 その女がまだたのんでもいないのに、バドライトの瓶を目の前に出してきた。
「まだなにもたのんでない」
 文句をつけているわけではないことを示すために、俺は笑顔をつくって言った。
「これでしょ。ミスター・ジョージ・ストレイト」
 カントリー歌手のジョージ・ストライトがバドライトのテレビコマーシャルに出ているのだ。そして、この店でカウボーイハットなどかぶっているのは俺だけだった。
「もちろん異論はないよ」

 俺はボトルに口をつけた。「俺はこのへんの者ではないのだが、この店はいつからあるんだい」
 十五年以上前の話を持ち出すなら、この二〇代後半か、三〇過ぎくらいにしか見えない女に尋ねてもだめかもしれない。
「さぁ、二〇年はここにあると思うけど……」
「そのわりに蜘蛛の巣なんかなくて、こぎれいにしているようだ」
 女はグラスを布で拭いながら小さく笑った。
「オウナーが、多少汚くてもお客から文句なんて言われないように苦心して考えた店名よ」
「では、きみはオウナーではないんだな」
「ええ、わたしはただのマネジャー」

 俺はジーンズのポケットからマッチを取り出した。
「ごめんなさい、店内禁煙なの。灰皿なら外の……」
「いや、これを見てほしいんだ。この店のマッチのはずなんだが、おそらく十五年以上前のものだと思う」
「でしょうね。わたしははじめて見るし、禁煙になってからは置いてないはずだから」
 念のため中も見せた。
「『L710』と書いてある。なにか意味がわかるかな」
 彼女はマッチを受け取ってしげしげと眺めたが、頭の中でベルが鳴った様子はなかった。

「十五年前を知ってるとなると……」
 彼女はカウンターの端に座るアジア人の男に目を向けた。俺はアジア人を間近に見たことはなかったが、彼女の口ぶりだと、俺たちよりもずっと年上なのだろう。
「ショータ、これ見て」

 腕を伸ばしてマッチを手にした男は、黒い髪に黒い口髭を生やしているが、やせていて、俺と同世代か、年下にしか見えなかった。
 男は首を横に振って、訛りのある英語で言った。
「ロジャーに訊いてみたほうがいいね」
「ロジャー」
「オウナーよ」
 女が答えた。
「どこへ行けば会える」
「ロジャーは、ここへはめったに顔を出さないけど、この先二マイル半のあたりでガスステーションを経営しているわ」
「いまも営業中かな」
 彼女は腕時計に目を落とした。
「おそらくやってる」
「ありがとう」
 俺はマッチを返してもらうとすぐにケツを上げた。五ドル札をカウンターに置いた。

「オウナーのことはきみから聞いたと言いたいのだが、名前を教えてくれないか」
「アリソン」
「ありがとう、アリソン」
「どういたしまして。なにかおもしろいことがわかったらまたここに来て教えて」
 アリソンは好奇心に満ちた笑みを見せた。
「それから、あなたも」
 俺がアジア人の男に言うと、彼はウィスキーグラスを掲げてみせた。
「グッドラック、カウボーイ」

(つづく)

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