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僕たちのフィルダースチョイス 8/17

     13

 権藤は、日曜日なのにピンストライプのシャツに臙脂色のネクタイをして、濃紺のスーツを着て教壇に立った。
 生徒は教室の前方中央の席に塁がひとり。
 塾長の田辺、宇賀神、藤原は父兄参観日のように教室の最後部に立っていた。
「いや、お前たちの顔ばっか見えるから座ってくれ」
 ゴンドーフが大人たちに言うと、三人は長机に適当な間隔をあけて着席した。

「今日の特別授業は、ワタクシ、ゴンドーフ先生だ。もう知ってるかもしれへんけど、短く自己紹介をするで」
 彼は自分の名前をホワイトボードに書いてから、経歴を述べた。
 権藤忠生。親は「まごころを持って生きる人になれ」という意味を込めてそう名付けたが、権藤自身は「ただ生きる」と考えていて、そのときたのしく生きられればよいとしている。
 パチンコ、競馬、麻雀などギャンブルはひと通りやってきて、それが高じたのか職業は証券ディーラーである。
「証券ディーラーいう仕事はやな、簡単に言うと、会社には株というもんがある」
 ホワイトボードに、ビルのような四角を描いて、その下に野菜のカブを五つ描き足した。
「あ、畑のカブちゃうからな。ただわかりやすうそない書いただけで。まぁ、会社を握る権利、所有権いうねんけどな、それを分けたものと思ってくれ。たとえば、この株をひとつ買うと、会社の五分の一の権利を持つことになる。ここまでええか?」
 塁は頷いた。
「この株には値段がついていて、『ほしい!』いう人が増えると価格が上がるし、『売って手放したい』いう人がようさん出てくると価格は下がるんや。
 せやから、私の仕事は値段の安い株を買うて、高いときに売るいう、誰にでもできる簡単な作業や」
「ウソつけ!」
 外野から野次が飛んできた。
 権藤は笑って受け流し、ホワイトボードに数字を書き込んだ。
「三十円で買うた株を、五十円で売ったら二十円の儲けが出るやろう。そないなことを繰り返して、お金を稼いでいる。で、これはなにかと言うと、毎回勝負なわけや」

 権藤は真っすぐ塁に向いた。
「勝ったり負けたりの勝負や。塁は勝負をしたことはあるか?」
 塁はピンとこない様子で首を傾げた。
「身近な喩えで言うと、ジャンケンが勝負やろ。ジャンケンはしたことあるよな?」
「うん」
「よし、じゃあ、私とやってみよう。立って立って」
 権藤は塁をその場で立たせると、自分と同じように腕を真っすぐに上げさせた。
「ええか。私は勝負のプロやからな。本気でやるんやで」
 その言葉に、掲げた塁の拳にぐっと力が入ったのを、田辺は見た。さすがゴンドーフと思った。
「いくぞ、ジャーンケーン!」
 ゴンドーフはピッチャーのように大きく振りかぶった。
「ホイ!」
 権藤はパー。塁はグーで、権藤の勝ちだった。
「うわぁ」
 塁が目を見開いた。権藤はニーッと不敵な笑いを見せながら、メタルフレームのメガネを直した。
「もう一回やろう。次は『最初はグー』からはじめるで」
 塁は拳をつくり、半身になって構えた。
「今回も、私が勝つ」
 ゴンドーフは仁王立ちして、塁を見下ろした。
「最初はグー! ジャンケン! ホイ!」
 権藤はチョキ、塁はパーでまたもや権藤の勝ち。
「なんで⁉」
 塁は悔しさよりも驚きで、権藤を見つめた。

 権藤は彼を着席させると、ひと呼吸おいてスーツの襟を整えた。
「では、解説しよう。ジャンケンというのは、グーチョキパーの三種類があるが、ひとが何を出すかという割合は、グー、パー、チョキの順で高いんや。
 つまり、パーを出せば勝てる確率が上がる。相手はグーを出す可能性が最も高く、次に高いのはパーだから、こちらがパーを出せば、勝てるか引き分けるかになる。チョキは、ちょっと指をつくるのが面倒くさいかたちやろ?」
「ほおぉ」
 声を上げたのは、教室のうしろに控えた宇賀神だった。
「だから、私はわざときみに『私はプロだ。本気でやるんだ』とプレッシャーをかけて、ぐっと力ませるように仕向けた。そして、ジャンケンの動作を大袈裟に大きくして、さらに力が入るように誘導したわけや。そうすれば、そのまま握ったグーを出してくる思たんや」
 塁は自分でもう一度グーをつくって、権藤の顔と交互に眺めた。
「二回目の勝負に関しては、一回目からなにも考える間を与えずにいった。
 『最初はグー』でグーを一度出しているから、そのままグーでいくのは、自分がそればっかり出している気がして嫌な感じなんや。しかも塁は、一回目のときにすでにグーを出している。
 だから、パーかチョキを出しやすい。一回目で私がパーで勝っているのが、頭のどこかに残っていて、パーを出してまう。
 そこで、私はチョキを出して二連勝、というわけや」

「完璧やないか、ゴンドーフ」
 藤原が感心してため息を漏らした。
「まぁ、はじめの二回しか通用せえへんけどな」
 権藤は平然としていた。
「つまり、勝負いうもんは準備がものを言うということや。これから、塁にも様々な勝負の場面がやってくると思う。入学試験、就職面接、昇進試験とか。試験ばかりやなくて、もしかしたらケンカだって勝負のひとつかもしれへん。スポーツの大事な試合もあるやろう。
 そういうときは、準備を怠らず、技術面だけやなく、心理面においても相手をよく読むんや。向こうがなにを考えて仕掛けてくるか、よく考えるんや」

 高校野球時代、権藤はたまに思いもよらない奇策を繰り出す一番バッターだった。バントと見せかけてバスター、初級からホームラン狙いなど、突拍子もない攻撃を仕掛けていたあの当時から、彼はそんなことを考えていたんやろうか、と田辺は思った。もしそうであっても、権藤なら不思議はなかった。

「よし、俺とも勝負してくれ!」
 突如、宇賀神が立ち上がった。
「なんでマガジンとジャンケンせなあかんねん」
「わからん。とにかくやりたい」
「カネでも賭けんのか」
 田辺が慌てて割って入った。
「ちょ、ちょっと待てや。塾内で、しかも塁の前でそれはやめてくれ」

「そうや、ええこと思いついた!」
 立っていた宇賀神が今度は急に教室を出ていくと、どこかへ駆けていった。
「なんなんや、あいつは……」
 宇賀神が階段を駆け下りていく足音だけが廊下に響いた。

 残された四人が待つこと二分。宇賀神は、息を切らせて戻って来ると、教室前方の机の上に、白いヘルメットと新聞紙の束とガムテープを置いた。
 ヘルメットにはでかでかと「防災」と書いてあった。
「講師室にいた人に訊いて出してもろた」
 権藤が教壇に両手をついたまま、無表情で宇賀神に尋ねた。
「で、これでなにをするんや」
「『たたいてかぶってジャンケンポン』ゲームや!」
「はぁ⁉」
「さすがにピコピコハンマーはなかったから、新聞紙を丸めてガムテープで棒にして代用する。いくで」
 宇賀神は有無を言わせぬ勢いで、新聞紙をバラしはじめた。

 結論を述べると、大人四人と子供一人は、そのゲームでめちゃくちゃ盛り上がった。
 ほかの教室ではまだ授業をしているところもあったから、笑い声が大きくなりすぎると、田辺は「シーッ!」と、みんなを抑えるのに苦労したくらいだ。
 全員が代わるがわる対戦する中で、宇賀神と藤原の「あいこ」が何度かつづき、つぎの「あいこでしょ!」で自分が勝ったのか負けたのか、負けのときはどうするのかオロオロしている宇賀神のおでこに藤原の一刀がクリーンヒットしたときには、塁も腹を抱えて笑っていた。
 田辺は静かにしろとは言えなかった。こんな塁を見るのははじめてだった。
 笑い転げて涙を滲ませる塁が、田辺の胸をきゅっと締めつけた。子供の笑顔ほど輝くものは、この世にないのではないか。僕も、そろそろ子供を持ってもいいのではないか。そんな考えが頭をよぎった。

     14

 モリタ学習塾の小学生部門は、平日は午後五時の講義と六時の講義がある。週末は午後二時からと三時からの二コマだ。
 学年、学習レベル、科目によって、やって来る曜日もちがうし、五時のクラスが終わって帰る子もいれば、六時から来る子もいる。
 高橋塁は日曜日の三時と、木曜日の五時のクラスを受講している。

 四階建てビルの一階は受付ホールと講師控室、二階と三階に教室があり、四階は生徒向けの催し物や保護者向けの特別ゲストによる講演をするときの大広間と倉庫になっている。
 田辺の塾長室は、一階の自動ドアの入口を入って、右手にある一階講師室の奥にあった。
 授業が終わる時間になると、田辺はなるべくエントランスまで出て、帰路につく生徒たちを見送るようにしていた。全員の顔と名前が一致するわけではないし、まだ六月のこの時期ならなおさらだ。
 それでも、できるだけ覚えて、
「小テスト、がんばりましたね」
「作文、よくできてました」
などと、ポジティブなひと言をかけるように心掛けている。

 モリタ学習塾は、私立中学を目指すような、小学校で成績上位の子が対象ではなく、どちらかと言えば学校の授業に遅れがちな子、著しく苦手な科目がある子供たちが通ってくる。
 そういった子は往々にして家庭での問題があったり、転校が多かったり、なにかしらの困難を抱えている場合が多い。
 塁もそのひとりということになるが、学習の方はともかく、宇賀神による特別授業はその後も何度か行ない、キャッチボールだけはまずまずの上達ぶりだった。
 田辺が同じ小学五年生だったころはすでに野球をはじめていて、キャッチボールくらい当たり前にやっていたが、経験のなかった塁は、ようやく基本的な動作ができて、時折たのしんでいる様子を見せるようになっていた。宇賀神と打ち解けたというのも大きいのかもしれない、と田辺は頼りがいのあるマガジンに感謝していた。

 その木曜日は、田辺は見送りに出たかったのだが、本部とのオンライン会議が長引いてしまい、時計を見たときには夜七時をすでに超えてしまっていた。
 ドアをノックする音が聞こえ、アルバイト講師の盛田が顔を覗かせた。
「塾長、ちょっとお時間よろしいでしょうか」
 盛田は大学院生で、週に六コマほど、日本史と国語の講義を持っている。若いのにヒゲなんか生やしているので、たまに保護者からは、モリタ学習塾の塾長はこの盛田さんなのだろう、と勝手に思い込まれていることがある。
 田辺自身もヒゲを蓄えているし、たとえアルバイトであってもそれを禁止する筋合いはないので、生意気盛りの生徒たちの中には、盛田のことを「ウソ塾長」と陰で呼んでいる者もいた。それがたまに盛田自身の耳に入ることもあるが、まんざらでもないので黙認しているのであった。

「どうしたの、盛田さん?」
 田辺は塾長室の応接ソファに盛田を促すと、自分は向かい側に座った。
 盛田は、腰を下ろすと、頬にかかるほど伸ばした髪の毛を、指で耳にかけた。
「さきほど、塾長が会議中に保護者からお電話をいただきまして……」
 この先をちょっと言いにくそうにする盛田に、田辺は「いいから、言ってみて」と身を乗り出して聞く体勢をとった。
「関口大樹、いるでしょう。ほら、あのでっかい」
 盛田はそこで胸を張り、両手で張り出たお腹を表現した。
「ああ、あの五年生で一番大きな」
「そうです、そうです。電話してきたのは彼の母親なんです」

 聞けばこういうことだった。
 うちの大樹によれば、授業が終わると髙橋塁くんにだけふだん見ない講師がやって来て、こっそりとなにか特別な補習をしているそうだが、それはなんなのか。個別指導のコースがあるとは聞いていないが、高橋くんのおうちはそのための割増授業料を支払って受けているのか。そうでないなら、特定の生徒だけ特別扱いをするのは不公平だ。この件については塾長から回答をお聞きしたい。

「ネチネチと三十分くらい、一方的に話されましたわ……」
 盛田は疲れ切った表情を見せ、ガックリとうなだれた。「とにかく、『私には事情がわかりかねますので、のちほど塾長に伝えますが、いまは会議中で』の一点張りで電話を切りました」
「そうか、それは申し訳ないことしましたね」
 田辺はひと言詫びを入れると、盛田には事情を簡潔に説明し、自分が対応するから、とこの件を引き継いだ。
 塾長室を出ていこうとする盛田が、ドアを開けたまま振り返った。
「そうそう、関口ですけどね」
「彼がなにか?」
「あの子、この塾内で高橋のことをいじめている、というか、いじめとまで言わなくても、しょっちゅういじっているんですよね」
 それは塾長の田辺もなんとなく感じていたことであったが、具体例を知りたくて、盛田に先を促した。
「どんな感じにでしょう」
 盛田は一瞬考えたあとつづけた。
「高橋は、ほら、廊下の端を真っすぐに歩きたがるでしょ。トイレに行くときでも、トイレの前まで行って、直角に曲がりますよね」
「やはりそうですか」
「はい。その高橋を廊下で通せんぼしたり、講義中に彼の口マネをしたりします」
「それは盛田さんが直接見たのですね」
「はい。何度か見ています。はっきりといじめとは言い切りませんが、子供のからかい方ってああいうものでしょう。それが執拗になると問題に発展しかねないですよね」
「そういうことをしているのは、関口くんだけでしょうか」
「あの周りの何人かが同じようなことをしていると思いますが、おそらく関口のマネをしている、と言いますか、彼が中心になっていることは間違いないと思います」
「わかりました。対処を考えます。盛田さん、ありがとう」

 盛田が部屋を出たあと、田辺は応接ソファに背中を凭れさせて、目を瞑った。
「厄介なことにならなければええけど……」
 こういうときは時間を置いてはいけない。田辺は飛び起きるようにソファから立ち上がると、デスクに座って関口家の電話番号を探した。
「もしもし、私、モリタ学習塾の塾長をしております、田辺と申します。夕飯時のお忙しい時間帯にすみません……」
 電話に出た相手の声質から、それが関口大樹の母親であるとわかった。相手は、田辺がすでに盛田から聞いている内容をいちいち繰り返してきた。
 受話器に関口の母親の声がキンキンと響き、受話器をわずかに耳から離した。
 我慢して、それをひと通り受け取ってから、田辺はなるべく低い声を出して言葉を選んだ。
「そうでしたか。ご心配をおかけしましてすみません。
 関口さんが懸念されているようなこととは、ちょっとちがいまして。確かに、高橋くんはやや引っ込み思案なところがあり、クラスに溶け込めていない状況ではあるのです。
 そこで、関口くんのような元気のいい生徒さんたちとなにか一緒に取り組める催し物を、塾として開催できないものかと考えておったのです。高橋くんの意見を聞いてみようと思って、何度か話し合いを持っていた、というのが今回の次第なんです。
 変な誤解を生むようなことになり、大変申し訳ありませんでした」
「あら、そうなの。その催し物いうのは、なにをしはるの?」
「はい、まだ企画中で決まってはいないのですが、生徒さんたちがたのしめて、なにかを学べるようなものにしたいと考えています」
 田辺は、文脈でいえば「いえ」なのだが、わざと「はい」で肯定しつつ返事をした。
「それは有料なのかしら」
ふた言目にはカネか、と思いながら、見えない相手に笑顔を作って、落ち着いて話した。
「無料ですよ。塾には本部からレクリエーション費という予算がつけられておりますので、ご安心ください」
 そんな予算は、本当はなかった。場合によっては本部と交渉だな、と田辺は先が思いやられる気持ちだった。
「決まり次第また関口くんを通じて、お母さまの方にもお知らせがいきますので、おたのしみにお待ちいただきたいと思います」
 田辺は最後に付け加えた。「関口くんは学校でも塾でも友達が多く、よくがんばっているみたいですので、催しの際にもリーダーとしてみんなを引っぱっていってほしいと期待しております」
「そうでしたか。わかりました」
 関口の母親は電話を切る前には田辺にお礼まで述べて、上機嫌であった。
 やれやれ、アドリブにしてはよくできたのではないか、と田辺は大きく息を吐き出した。

 さて、こういうときはどうするかって、あいつらしかおるまい。田辺は連中を招集した。

(つづく)

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