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ザ ブック オブ マッチズ 15/16

「きみの父親は、わしの会社で、少なくともはじめのうちはよく働いてくれた。わしは、オイルセブンには州内のインディアンの各部族からスタッフが必要だったし、白人だって黒人だって歓迎だった。

 さっきも言ったように、世界を救うことなどできないが、わしの目の届く範囲で、人種間の壁を越えて、自分たちの小さな世界をよりよくするのが目的だ。
 ボイドは、クロウの居留地内の家屋に住んで、今日はわしとあっちへ、明日はひとりでそっちへと走り回ってよくやってくれた。インディアンのコミュニティにも溶け込んで、友人を増やしていった。
 しかし……」
 イーサンは言葉を切って、俺を見た。「孤独に勝てなかったのだ」

 彼の瞳は洞穴を覗きこんだように真っ黒だったが、いまそこには井戸のように、なにか光るものがあった。
「孤独に、勝てなかったのだろう」
 彼は繰り返した。「居留地ではいとも簡単にドラッグが手に入る。はじめは無料サンプルだ。シャンプーみたいなものだ。わかるだろ。小さなボトルがついてくる。マーケティングなのだ。
ひとが集まるたのしげな場所、たとえばパーティでもいい、お祭りでもいい、そこにいればどこからかフリーサンプルが回ってくる。
そのときはすでにいい気分で酔っぱらっているだろう。その場のノリで試してみようものなら、終わりのはじまりだ。
 つぎからは買わなくてはならないから、稼ぎはドラッグに消えていく。ドラッグのために働くことになるし、足りなければ盗みでも殺しでもすることになる」
「父親は、つまり、完全に堕ちてしまったのですね」
 イーサンは、ためらいを見せながらも、ゆっくりと深く首肯した。
「もちろん、居留地内に依存症のリハビリセンターはある。白人だって入れるから、わしは彼をそこに入れた。しかし、わしらのいるクロウ居留地は町に近すぎるのだ。誘惑が多すぎて、結局ボイドも施設から出たり入ったりを繰り返しただけだった。
 その点、ブラックフィートの居留地はカナダに近いし、西はすぐロッキー山脈だ。自然の中で、人間を取り戻してほしいとわしは期待したのだ」

 俺はヘッドレストに頭を凭れさせて、目を閉じた。マスタングの低く太いエンジン音だけが耳に入ってくる。
 ふたたび目を開けると、草原と濃い緑に覆われた山々と、青空をブラシで撫でたような雲が視界いっぱいに広がっていて、いまイーサンが話した凄愴と、どちらが現実なのかわからなくなった。   どちらも現実なのだが、隣り合わせであることがひどく不似合いなのだ。

「そこでしばらくは元気にやっていたようだ。ブラックフィートにいる、ピートという男が面倒を見ながら、そこで仕事をしていた。
 しかし、ようやく長い冬が終わって春がやって来た、ふた月前のことだ。
 これは、あくまでもわしの想像でしかないが、ある晩、ボイドには自力では手に負えないくらいの、大きくて深くて冷たい孤独が襲ってきてしまったのだろう。
 彼が飲んだウィスキーと錠剤が、彼を二度と戻れない境界の向こうへと押しやってしまった」

 イーサンが慎重に選んだのであろう表現が、父親の死をなんだか安らかなもののように感じさせた。彼の心づかいに心の中でそっと感謝した。
「ドラッグの経験は?」
「ありません」
 イーサンの質問に即座に答えた。「いまのところ、キャメルとバーボンで足りています」
「わしはインディアンだから、わかるだろ、そりゃあ知らないわけではない。
 ドラッグというのは、生きるのもしんどいが、死ぬのも怖いという者が逃げ込む場所だ。やっている間は、生きてもいないし死んでもいない。その中間のどこかに浮遊できる。
 しかし、永久ではない。結局、悲惨な生に戻って、さらに悲惨な死に直面する。最悪だ。
 本当に最悪の、最悪だ!
 イーサンが突然大きな声を出したので、正気を失ったのかと心配になった。でも、イーサンの表情は落ち着いているように見えた。憤りが口元にわだかまっていた。目元には悲しみが潤んでいた。

「父親に女はいなかったのでしょうか」
 彼を宥めようと、俺はすこし角度のちがう質問を投げかけた。
「あまり彼の名誉を汚すことをこれ以上言いたくはないが、そういう商売をする女は居留地にもいる。付き合った女もある時期にはいたのかもしれない。それでも、家族の代わりにはならなかった、もしくは、新たに家族を築くには至らなかったのだろう」
 俺も母親も、数年間は父親がいつ帰ってくるだろう、いつか戻るだろうと、待っていた。
「そんなに孤独を持て余すなら、なぜBM牧場に帰ろうとしなかったのか」
 これはイーサンにではなく、独り言のようにつぶやいた。

「ブレット、これだけは忘れないでほしい」
 イーサンが声を低くして、一語一語、ゆっくりと話した。「ボイドは、わしの友達だった。わしの社員でもあったが、仕事を超えて人間同士として付き合ってきた。わし自身は彼を家族に近い存在として思ってきた。
 彼を救えなかったことは無念だが、彼はいまでも、これからも、ずっとわしの友達だ」
 そう言って、イーサンは拳で自分の胸をドンドンと叩いた。そして、人差し指と親指で顔を挟むようにして、両目からこぼれる涙を拭った。

          18

 道の先に、ところどころ雪を冠したロッキーの連峰が見えてきた。

 ブラックフィートの居留地に入った。町はブラウニングといい、どこにでもあるようなさみしげな田舎の町だった。ガスステーションがあり、タイヤ屋があり、ホームメイドバーガーを出す地元のレストランがあった。
 メインストリートを挟んで北ブラウニングと南ブラウニングに分かれているが、マスタングは北へ入った。町を抜けて、草原の道をしばらく行き、やがて道路は大きな川沿いになった。丘をのぼって、川を見下ろせる広場で、イーサンはマスタングを停めた。
「ついて来てくれ」

 俺たちは砂利道を歩いた。坂の小径を進むと、墓石が立ち並んだ一画に出た。
 イーサンは黙ったまま、その奥へと歩いた。真新しい墓石の前で立ち止まった。
「ここだ」
〈ボイド・マーティン 1948 - 1993〉と彫ってあった。父親は、ボイド・マーティンとして、生きて、死んだのだ。

「本来ならここはインディアンしか葬られることのない墓地だ。これにより彼がいかに我々に受け容れられ、愛されていたか、知ってほしい」
 そう言うと、イーサンはアプサロガの言葉で、何事か祈りを捧げた。

 俺は、覚えている父親の顔を心に思い浮かべようとした。脳裏に描かれたのは、母親と抱き合って踊り、穏やかに微笑む彼だった。

(つづく)

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