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「つくし狩り」

十九才の男を、少年というのか、青年なのかは微妙なところだが、少年は少年時代にあっても自分を少年などとは思っていないものだ。
少なくとも彼は、大人になる準備はできていると考えていた。

清介は一浪ののち大学に入るとすぐに実家を出て、ひとり暮らしをはじめたいと思った。
「セイちゃん、大学にはうちから通えるねんから、わざわざお金かけてアパートなんかに住まなんでもええんちゃうか……」
母親は予想通り、そう言って止めたが、清介にとってこれはお金の問題ではないのであった。

「したいようにしたらええ。もう子供ちゃうんや。その代わり、家賃は自分でバイトでもして工面しいや。あとのもんはワシが出したるさかいに」
父親は意外とものわかりのいいところを見せて、彼の出立を後押しした。

体が大きかった清介は少年野球からいきなり頭角を現し、中学ではピッチャーで四番、高校でもそのままいくかと周りの誰もが期待した。しかし、甲子園出場実績のない公立高校に進み、一年の秋に野球部をやめた。
校舎の屋上でタバコを吸っているところを教師に見つかり、父親が呼び出されたときには、職員室にツカツカと入ってくるなり、頭をゲンコツで殴られた。
「お前はこんなことんために、野球やめたんか!」

以来、清介はほかのスポーツに転身するわけでもなく、楽器を弾くでもなく、とくに打ち込むものも見つけずに、高校生活を終えた。父親にあれがしたいとか、なにを買ってほしいとか言ったこともなかったから、ひとり暮らしがしたいという希望は、実質はじめての自発的な申し出だった。

大学には自転車で通えて、実家には電車一本で帰れる場所に住処を見つけようと、ひとつの駅に目星をつけて、町の不動産屋を訪ねた。市営電車の改札口を出て、通りと交差する阪急電車の踏切を渡って、左に折れると繁華街と呼べるほど華もない、歓楽街といえるほど歓びもなさそうな区画に入る。

三分ほど歩いた角に、紫と白のタテ縞模様のファサードを掲げた店舗があった。
「ともみ不動産」とガラス窓に書いてある。
そこ以外のガラスは「〇〇駅からすぐ 1DK 6.5万円」だとか「学生向け 1K 5.3万円」だとかの物件情報が埋めている。
ガラス扉が六枚あるうち、どれが開く引き戸なのか見極めて中に入ると、店内は狭かった。目前にカウンターが迫っていて、一歩入ったらそれ以上は進む場所がない。カウンターの向こうには衝立があり、事務所の様子は見えないが、人の気配があることはわかった。

「ごめんください」
「は~い」
思ったより高い声が返ってきて、清介は少し面食らった。無意識に、不愛想なおじさんが出てくるものだと予測していたようだ。
姿を見せたのは、おばさん、いや、おねえさんといったらいいのか、少年と青年の間のなにかである清介には、女もそれらの間のなにかとしか判別はつかなかった。

水色のニットカーディガンは薄手で、女の腕から脇にかけての厚みが、大学にいる同級生たちのそれとはどこかちがうことが感じられた。その下に着たVネックのシャツは、四月にはちょっと早いのではないかと思えるくらい切れ込みが深く、胸の隆起がはっきりとわかり、清介はあわてて目をそらして、女の頭上あたりを見ながら言った。
「あの、部屋を、自分用の部屋を探しています」
「学生さん?」
少し首を傾げて顔をのぞき込むように訊く女から視線をはずすように、清介は自分の肩掛けカバンに目を落とし、学生証を探した。
「はい、K大の一回生です」
一回生は余計やったかと思いながら、彼は伝えた。
「そしたら、こちらの紙に希望の条件や、あなたについて記入してくれます?」
清介は、服を脱がされるような照れくささを感じ、あなたについて、と心の中で繰り返した。

彼がペンを使う間、女はお茶を用意しながら、ひとりであれこれと周辺情報について語った。
このあたりは学生も多く、安く食べられる定食屋や居酒屋があり、きっと住みやすいはずだということ。地下鉄と阪急の駅があって思いのほか便利なのに、川の向こうに比べて家賃はずっと安いこと。工場や倉庫があるあたりまで行くと、夜はさびしいから、女学生には勧めないだろうということ。

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「そうそう、ちょっと行ったらラブホテルもあるわ」
記入を終えて、出されたお茶を飲んでいた清介はむせそうになった。
「ひとり暮らしになったら、ラブホはいらんでしょう」
「あら、彼女いるの?」
「いませんけども」
清介の強がりは一瞬でバレた。

「親御さんも心配でしょうね」
と、女は自分で話をふっておいて、よくわからない締め方をした。
女は清介が書き込んだ紙を手にした。カールしたまつ毛の下で、瞳が右に左に動いた。
女が紙に目を通す間、清介は盗み見するように女を見つめた。
傾いてきた陽光がガラス扉から差し込んできて、女の髪を赤く染めた。実際にやや赤色に染めているのだろう。
肩にかかるくらいの髪の毛を左手で耳にかけると、首筋にはほくろがあった。
女は目を上げた。
「四万円ね……」
清介は一瞬、淫靡な想像をしてどぎまぎしたのを必死にごまかした。
「あ、はい、四万くらいで部屋が見つかれば言うことないんですが」

清介がバイトをはじめた印刷工場は時給八五〇円。一日六時間を週四回、五回しても月に十万円に満たない。遊興費を考えたら、家賃にはそれくらいが限界だと思えた。
そろそろ携帯電話というものも持たなくては、新しい友人たちとの連絡に不自由を感じるようになった。

女はいったん奥へ引っ込むと分厚いファイルを抱えて戻ってきた。しばらくページをパラパラと繰ったのち、ひとつ物件のページを開いたまま、清介の方に反転させて見せてきた。女の胸がカウンターにのったとき、ムギュッと音すらしそうだった。
「条件に合うところで、いくつか見せたいところがあります。これからどう?」
女は腕時計を指しつつ、まるでショッピングにでも誘うように言った。
「はい、大丈夫です」
女は紺色のスーツの上着をとると、裏手の駐車場から車をまわしてくると言って、ふたりで店を出た。

歩き去ろうとする女の後ろ姿を見ると、ふくらはぎのあたりでストッキングが伝線していた。
「あ、破れてますよ」
「あらやだ。ちょっとここで待っててくれへん?」
女が建物内に戻っていき、清介は手持無沙汰になった。
両手をジーパンのポケットに入れて待つあいだ、女が紺色のスカートを腹までたくし上げ、ストッキングを脱ぎ、新しいものをくるくるして足に通し、のばした脚にするするしていく様を想像して、ちょっと鼻息が荒くなった。温度をもった、甘ったるい女のにおいが鼻先に感じられるようだった。

女は出てくると「オッケー」といって、片脚をうしろに折って、清介にふくらはぎを見せてきた。
清介はなんと答えていいかわからなったので、ただ小さくうなずいた。

社用の小型自動車に乗り込むと、女は再び「あらやだ」と言い、カバンから名刺を出してきた。
「申し遅れてごめんなさいやわ。さくらともみです」
紫と白のストライプが入った名刺には佐倉智美とあった。
智美の運転で車が走る間、清介は会話の糸口をみつけようと名刺を見つめた。
「なんでさくら不動産ではなくて、ともみ不動産にしたんですか、社名」
「さくら不動産やと、ありふれてるから」
「そんなもんですか」
清介は不動産屋の名前にありふれてるも珍しいも見当がつかない。
「それとね、苗字は変わるから」
「はぁ」
あまり立ち入った質問はしないよう、清介はテキトーな返事をして、車窓の外を眺めた。
さっき、彼女はいるのか訊かれたのだから、年齢とか結婚しているのかくらい尋ねても失礼にはあたらないのではないか、どうなのだろう。でも、離婚しているのなら、なんだか嫌な感じになるからやめておこう。
そんなことを考えているうちに、車は川沿いの狭い道に入り、左手に河川敷の土手が迫っていた。
「このあたりの唯一の自然いうんか、芝があって、野球場があって、つくしとか生えるねんで、このへん」
智美の言葉に、清介は「野球はもうすることはないけど」と思った。

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清介が野球をやめたのは、ケガのためでも人間関係のせいでもなかった。
なぜはじめたのかわからないものには、やめるのにも大した理由はいらなかったのだ。
強いて言うなら、迫ってくるボールが怖くなった。それだけだ。

「子供はおらへんねん」
最後の「ねん」のところの語尾を上げて、彼女はたのしいことでも話すような口調で言った。
「はぁ」
清介はまた同じ返事を繰り返すしかできなかった。
話題を変えようと思って、どうでもいいようなことを尋ねた。
「つくしって、食べられるんですか」
「食べられるよ。ちょっと面倒くさいけど、皮を剥かなあかんねん」
「食べたことはないですわ」
「私はあるよ。子供のころによう食べたわ」
清介は、また彼女の年齢を訊きそうになって、思いとどまった。
「昭和の話や」
彼女は清介の心中を見透かしたように、彼を見て笑った。清介も笑みを返した。
智美の運転する車が止まった。が、どこかに到着した感じではなかった。
「ここから先は、車が入られへんから、歩くわ」
二人は自動車を塀に寄せて停め、細い路地へ入った。

画像2いわゆる文化住宅と関西で呼ばれる、同じ造りのアパートが何軒も並ぶ界隈だった。それを過ぎて、左に折れ、さらに細くなった路地を行った。
そのどんつきに、土壁、モルタル屋根の二階建てが見えた。ラグビー選手が四、五人でタックルすれば、向こう側に音を立てて崩れそうなアパートである。
「ここ。ちょっと待ってて」
智美は一階奥の大家らしき部屋を訪ね、鍵を入手して戻ってきた。
「部屋は二階やねん」

智美は先に立って、錆びた金属の階段をカンカンと音をさせてのぼっていった。なんとなく足音を忍ばせてあとにつづく清介の目の前に智美の尻が揺れた。
紺色のスーツスカートに、うっすらと下着の輪郭が透けていた。柔らかそうな尻臀に比して、新品のストッキングに薄く包まれたふくらはぎは、階段を上がるたびに筋肉が収縮するのがわかり、思いのほかハリが見て取れた。

二階の通路すぐの一室の前に立つと、鍵を開けて扉を開いた。智美は先に入って靴を脱ぎ、膝を閉じたままかがんで靴を逆向きにそろえた。垂れた髪を直すときに、再び首筋のほくろがのぞいた。
清介は玄関から、女の後ろ姿がある部屋を眺めた。八畳一間。洋式トイレあり。風呂なし。
悪くない眺めだった。

「ここがね、3万9千円」
ガタつく窓枠をスライドさせて開けると、まわりの家屋に囲まれていて大した眺望はなかったが、家々の間から川の土手が見えた。
清介は壁をしげしげと見つめたり、トイレの扉をあけたり、畳を撫でたり、電灯のスイッチを上げたり下げたりしたが、もう決めていた。
「ええですね」
ここから大人をスタートするのは、よいような直感があった。

智美は、開いた窓から土手の方に遠い目を向けていた。風に髪が揺れていた。
「ええやろ」
「悪くないです」
ここからどういう手続きがいるのか、ハンコを持ってきておいた方がよかったのか、引っ越しはいつくらいにしようか、などと考えを巡らせていると、智美がふいに言った。

「こんどな……」
智美に目をやると、彼女は窓外を向いたままだった。
「つくし狩り、行こな」

少なくとも彼は、大人になる準備はできていると考えていた。しかし、その考えは揺らいだ。
いつはじまるかわからないものに、準備もへったくれもあるのだろうか。
清介は、つくしって、土筆って書くんやっけ、と思っていた。


(了)

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