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ザ ブック オブ マッチズ 14/16

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 翌朝、九時にはオイルセブンに着いた。イーサンはすでに建物のフロントポーチに出て待っていた。今日は黒い襟シャツを着て、昨日と同じ黒いヴェストを身に着けていた。
 前庭には昨日あった社用車の白いヴァンではなく、黒いフォード・マスタングが停まっている。
 俺がダッジ・ラムから出ると、イーサンが階段を降りてきた。
「ブレット? ブレットだったな」
 眉間に深いシワを寄せたまま、にこりともせず確認してきた。
「ブレット・マクナマスです」
 俺はもう一度名乗った。
「よし。行こう」
 彼はマスタングのほうへ歩を進めた。俺は一瞬、ダッジを振り返って、後部にあるライフルのことを思った。丸腰になってしまうが、イーサンは有無を言わせぬ、妖気のような力を発していた。
 あきらめて俺はカウボーイハットをとって助手席に乗り込んだ。ふだん、ピックアップトラックではハットの邪魔になるので、シートのヘッドレストを引き抜いてある。他人の車では、仕方ないからハットを後部座席に放った。

 イーサンがエンジンに点火すると、足元から腰へ、荒馬のいななきのような振動が伝わった。
「いまから、四〇〇マイル以上走ることになる。だからマスタングで飛ばすが安心しろ」
 イーサンは、まったく安心できない、むしろ脅すような口調だった。

「どこへ」
 俺は誰でも知りたがるであろう当たり前の質問を口にした。
「道々説明する。ロングドライブのロングストーリーになる」
 俺は腹をくくった。
 イーサンはそう言ったわりに、その後しばらく口を開かなかった。

 ハイウェイに乗ると、俺はマスタングの疾走をたのしみはじめていた。なるほど、俺のピックアップトラックは排気量では上回っているが、車両としての役割がちがう。真っすぐな道を突き進むにはマスタングはその力を充分に発揮した。
 車窓の景色が吹き飛ぶように流れていく。前方のウィンドシールドには、地平線がぐんぐん迫ってくるが、ひとつ丘を越えると、またつぎの地平線が顔を出し、うんざりして笑えるほどだった。俺たちは北へ向かっているようだ。

「きみは父上とおなじ眼をしている」
 イーサンはさきほどの会話のあと眠っていていま起きたかのように突然話した。「昨日、きみとはじめて会ったとき、即座にわかった。きみがボイド、わしらがボイドと呼んでいた男の息子だと名乗ったときにな」
「父親はブランドンです」
「そう。ブランドンか。だから、わしはきみに身分証明書もなにも求めなかった。よく似ている」
 俺は黙って先を促した。「まだしばらくかかるが、その間ずっと期待させるのは心苦しいから言っておく」
「はい」
 彼を見ると、こちらにちらっと視線をよこした。
「きみの父上は、もうこの世にはいない」

 半ばわかっていたこととはいえ、すぐには返答できなかった。
「ふた月ほど前に死んだ」

 たったふた月。指先ほどの差で、会えなかったことになる。むしろ、つい最近まで生きていたことが意外な気すらした。
「わしは彼をボイドと呼びつづけるが、許してくれるか」
「どうぞ。あなたにとってブランドンはボイド以外の何者でもなかったのですから、そうしてください」
「ありがとう。それは、わしらがインディアンなのかネイティブ・アメリカンなのかくらいの意味しかないのかもしれん。なんと呼ぼうと彼は彼なのだが」
 マスタングは碧く澄んだ空へ急降下して突撃するように下り坂を走った。

「ボイドはわしの友達だった。もう十五年以上前になると思うが、バーでタバコの火を借りただけという些細なきっかけでわしらは知り合った。人間の出会いというのはおもしろいものだ。何年も顔をつき合わせて働いても友人にならない者もいれば、一瞬で打ち解ける者もいる。
 当時の俺はいまの会社をはじめたばかりのときで、彼に構想を話した。働き手を求めてもいた。話すうちにこの男は悪くないと思えたのか、たんに酔っぱらっていただけか記憶にないが、彼に一度うちに来いと誘った。
 彼は自分のことはそのときもそれ以降もほとんどなにも話さなかったが、農家の次男かドラックドライバーか出所したばかりの前科者かとわしは勝手に想像した。とにかく彼は、ボイドと名乗ったのだ」
「そのとき、マッチにあなたの社名を書きませんでしたか」
 俺はあのコブウェブのマッチをイーサンに見せた。開いて文字が見えるようにした。この向きだと"L710"だった。

 「そうそう、コブウェブだ。これは確かにわしの字だな。なにか紙切れはないかとボイドに言うと、彼はあのマッチをよこした。わしは差し出されたままこちら向きに書いたから、逆さに見える」
「そうです。この逆さまにロジャーが気づいて、俺はあなたに行き着いたのです」
「だいぶ酔っぱらっていたのだろうな、あのころのいつものことだが」
 一〇〇マイルも走って、イーサンは俺の前ではじめて笑った。「このマッチもそうだが、死んだボイドの魂が、きみをわしのところに呼び寄せたように思える」

 おそらく、父親の出奔はある程度、計画的なものだったのだろう。漠然となのか明確になのかはわからないが、牧場を捨てて別の人間として生き直したいと思っていたところに、イーサンと出会ったのだと思う。少なくとも発作的に遁走したわけでも、狂を発したわけでもあるまい。
 なぜそんなことをしたかったのかは、父親本人以外の誰にもわからないだろう。彼が死んだいま、もう永遠にわからない。

 俺は俺の考えをイーサンに話した。彼は何度か頷いた。
「そうだな。自分が何者なのか思い悩むのは十代の特権ではない。彼はいくつだったんだ」
 俺は指を折って数えた。
「父親は五十四才で死んだことになります」
「つまり、わしと会ったときは三十八とか三十九だ。ミッドライフ・クライシスに、強烈にブチ当たってもおかしくはない」
「俺はその年齢には満たない三十一才なのでわかりませんが、父親が牧場を去ったあと、母親は精神的に死に、そして肉体的にも死を迎えました。俺は十六才からほとんどひとりで牧場を維持するために働いて働いて、自分が誰なのかとか考えたことはありません。しかし、ここから逃げ出すことができたらどんなにいいか、という考えがふと頭を過ぎることはあります」

 イーサンは夜空に北極星を探すような目つきで、道の先の一点を見ていた。
「勝手を言うが、ボイドを恨まないでやってほしい」
 俺は答えることができなかった。すでにお釣りがくるくらい恨みぬいてきたのだ。しかし、これからはちがう気持ちで彼を想えるようになればいいとは願った。

「インディアンは、きみたち白人よりも、と言ってしまうと失礼だが、おそらく、生まれたときから自分が誰なのかという呪縛から逃れられない。だってそうだろう。インディアンという名称からして、インド人と間違えられたことに端を発し、わしはクロウ族だが、実際は、わしらの言葉ではアプサロガというのだ。これは『大きな嘴の鳥の子供たち』という意味だ。
 それを白人が誤訳してカラスと呼ばれてしまい、それを半ば受け容れて生きている。
 居留地というある種の特権、ある種の隔離された土地を与えられ、ある意味では伝統的な、ある意味では貧困の中で暮らしている。世の中は川の奔流のように変化していくのに、取り残された陸地で百年前とおなじような生活を自ら望み、または期待され、百年前の戦争のことを、まるで自分が戦ったかのように話している。
 人種差別に反対しながら、自分はクロウだ、チェロキーだ、アパッチだ、スーだ、といがみ合っている。そして、みんな貧しく、アルコールやドラッグ漬けになっていく」

 イーサンの声には微かに自嘲が、静かに怒りがこもっていた。「わしは一般的なインディアンとはやや考えを異にしているかもしれない。しかし、自分をどういう名前で呼ぶかとか興味がないし、伝統は守って継承したらいいが、それよりも、いまをよりよく生きたいと思っている。

 カネだけが豊かさの物差しではない。それはわかる。しかし、しっかり現代を生きて、きちっと儲けて、ちゃんとコミュニティに恩返しをしたいと願って、この会社をつくった」
「はい、ロジャーから経緯を聞きました」
「アメリカ中のインディアンをわしが束ねることなど不可能だ。そんな力はない。しかし、モンタナにいる仲間たちと、部族を超えて石油ビジネスをはじめた。
 オクラホマ州の北部にオーセイジという部族がいる。一八九四年にそこでどでかい油田が見つかって、彼らは一九二〇年代には世界でも類を見ないような栄華を極めた。ひとつの家族に自動車が何十台もあって、自家用飛行機を持つ者もいた。
 そんな夢を見ているわけではない。そこまでの豪奢な暮らしぶりが善であるとも、わしは考えていない。
 それでも、わしからすれば土の底から湧き上がる油だって、大地の恵みだ。大麻やケシがよくて、石油がいけないという理屈はわしにはわからん。
インディアンの中には、石油採掘をよしとしない者も多い。だけど、このマスタングを見ろ。なにを喰らって走っているのだ、これは。

 残念ながらいまのところ、モンタナの七つの居留地すべてから石油を掘るには至っていない。だから、オイルセブンの七は、いまはただのラッキーセブン程度のゲン担ぎの意味しかない。
 利益を出しているのは、クロウ居留地と、フォートペックと、ブラックフィートの三つだ。
 そしていま、わしらが向かっている先にブラックフィート族の支部がある」

 クロウ族の居留地は州の南部に位置し、南側はワイオミングとの州境に接している。ブラックフィートは州の反対側で、北はもうカナダ国境だ。
 ようやく行き先がわかった。

(つづく)

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