見出し画像

インディアンの子供達を「殺した」教育ーアリゾナ日記第2夜

前回は、アメリカン・インディアンの子供達を殺す舞台となったインディアン寄宿学校が成立することになる、教育政策的な背景とインディアン政策的な背景を簡単に解説しました。今回は、

①インディアン寄宿学校の成立

②インディアン寄宿学校のシステム

の2点に焦点を当てて話を進めていきます。

今回も教育史の授業のノート&プレゼンを基にあれやこれや書いていきますが、授業で沢山参考文献を読まされましたが、時間が無い人は「Education for Extinction」さえ読んでもらえれば、概要はほぼ完璧につかめると思います。

4. インディアン寄宿学校の成立

そもそも論として、寄宿学校(ボーディングスクール)という教育形態はなかなか恐ろしい物です。アメリカ・イギリスで、エリートの中のエリートの学校が寄宿学校という形態をとっているのは、家庭や地域に触れる機会が残っていては、完璧なエリートに育て上げることができないからです。この辺りについては様々な本がありますが、「The Best of the best」という寄宿学校のエスノグラフィーなんかは分かりやすいと思います。インディアン寄宿学校も、このエリートボーディングスクールと発想は同じライン上にありますが、その誕生はなかなかに恐ろしい所から来ています。

Richard Henry Prattという軍人がいました。彼は、白人の指示に従わなかったために捕らえられたアメリカン・インディアンの監視役となるのですが、その監獄の中で実験的に英語教育だけでなく、Common Schoolで教えられていたような事を教え始めました。これが思いの外うまく(?)いき、この捕らえられたアメリカン・インディアン達を白人のように生活させることが出来るようになりました。そして、この経験を基に、Pratt氏はアメリカで初となる居留地外のインディアン寄宿学校を設立することにしました。

要するに、インディアン寄宿学校は、アメリカン・インディアン達の監獄の経験を基に作られたものだという事です。

監獄経営を基に寄宿学校を作ったというと、Pratt氏はとんでもない奴だな!と思うかもしれませんが、それは2021年の感覚で当時を見ているからで、当時の感覚からPratt氏を見ると、そこまでのトンデモ人間ではないのかもしれません。

この当時、「良いインディアンは、死んだインディアンだ」という事が言われていましたし、「文明化か絶滅か」という事も言われていました。これに対してPratt氏がインディアン寄宿学校を経営する上で掲げたのは、「インディアンを殺して、人間として生き返らせる(Kill the Indian, save the man)」、というものです。現代からすれば、それでも十分とんでもない奴だなとなりますが、時代背景を考えると当時としてはかなり慈悲深い人間だったのではないかなと私は思いました。

このようにしてインディアン寄宿学校は成立したのですが、これが時流に乗ったのはまた別の要因があります。前回の記事で解説しましたが、当時はマイノリティ達もCommon Schoolで学ぶようになり、アメリカン・インディアンの子供達も例外ではありませんでした。しかし、学校にいる間以外は子供達はずっとコミュニティの中でアメリカン・インディアンの言語を使い、その分かの中で生活しているのでCommon School程度ではアメリカン・インディアンの子供達を文明化などできるわけがなく、英語も身に付かないし、学校に来ない子供達も続出しました。

そこで居留地内に寄宿学校を作るようになるのですが、これでもまだ十分ではありませんでした。なぜなら、アメリカン・インディアンコミュニティが学校運営に色々と影響を与えてきて、子供達が白人らしく生きるようにはならなかったからです。そこでPratt氏の噂が広がり、親元やコミュニティから遠く離れた居留地の外の寄宿学校が広まっていくことになりました。

とは言え、居留地外の寄宿学校を運営するのはコストが高いため、Common Schoolや居留地内の寄宿学校で基礎的な事(現在だと小学校相当)を学ばせた後に、居留地外の寄宿学校に連れてきて白人として生きるために必要な事(現在だと中学校や高校に相当する)を教えるシステムが取られるようになりました。

5. インディアン寄宿学校のシステム

A. インディアン寄宿学校の財政

では、インディアン寄宿学校の教育政策的な話をしていこうと思います。インディアン寄宿学校の財政では、カナダの事件でカトリック教会が非難されているように、アメリカでも教会が重要な役割を果たしたのは、アメリカン・インディアン政策の所でお話した通りです。しかし、税金が投入されていた点も見逃してはいけません。

アメリカン・インディアンの教育に税金が使われたの?というのを不思議に思う人がいるかもしれません。2021年の今ですら日本で朝鮮人学校への補助金で議論が起こるほどには人間という生き物は他のグループに対して不寛容な所があるので、19世紀末から20世紀初頭の時期にアメリカン・インディアンの教育に税金?というのは自然な問かもしれません。しかし、アメリカン・インディアンの教育には米国の税金が使われていました。なぜなら、「戦争でインディアンを殺す戦費よりも、教育で文明化させる方がはるかに安上がりだからだ」、というのが実際にコストが計算された上で主張されたからです。

しかし、この税の出所もなかなかのいわくつきです。元々アメリカン・インディアンの教育は、白人が土地を得る口実として広まっていきましたが、この頃になるともうそんな口実すらどうでもよくなり、19世紀末にAllotment Actが成立しました。これは、アメリカン・インディアンの広大な土地を没収し、一人一人に特定の面積の土地を与えるというものでした。勘の良い人はここで気が付いたかもしれませんが、この没収した土地の売却で政府が得た税収が、インディアン寄宿学校の運営に充てられたのです。

政府からインディアン寄宿学校への支援は、Capitation Grantの形が取られました。これは生徒の人数に応じて学校に予算が与えられるものです。これは少なくない低中所得国でも採用されているシステムで、学校が行政に生徒の人数を過剰に報告するという問題が生じていて、DHSやMICSのような家計調査のデータではなく、EMISのような行政データを使ってみたら純就学率が100%を超えて、なんだこれは!、となった人も大勢いると思います(特に大統領の出身地域のデータはバグりがちですよね)。

しかし、アメリカはやはり低中所得国とは違うんだなと思わされるのが、当時のアメリカでは学校経営を成り立たせるためにアメリカン・インディアンの子供達を寄宿学校で受け入れるだけ捕まえようとエージェントが躍起になったという点です。この仕組みにより、アメリカン・インディアンの子供達を余すことなく寄宿学校へ連行することが出来たのです。これは国際教育協力をやっている人にとっては本当に驚きの現象だと思います。

もちろん、政府支出の額は決して十分な物ではありませんでした。特に、居留地内のCommon Schoolと寄宿学校の環境が劣悪で、後者では提供される食事も十分ではなく栄養不良の子供が続出した上に、衛生環境が良くないために伝染病が頻繁に蔓延し、数多くの子供達が命を落としました。実際に、アメリカン・インディアンの親達が学校教育に反対した理由も、文化的な剥奪よりも、インディアン寄宿学校のあまりにも高い死亡率からきていました(同年代の白人の4-10倍程度は学校内の感染症で命を落としていました)。カナダで見つかった215人の墓地も、恐らくそんな寄宿学校だったんだろうなと思います。文字通り、アメリカン・インディアンの子供達を殺すような教育が行われていたわけです。

居留地外のインディアン寄宿学校は、居留地内の教育に比べれば恵まれていました。なぜか?というのは想像に難くないと思いますが、居留地の外という立地から白人の目に触れるので、政治家にとって有権者へのショーケースとなったため、あまりにも劣悪な状態のまま放置はできなかったからです。これに加えて、居留地外のそれは現在の中等教育に該当したため、農業・工業・縫製の職業訓練が行われており、そこでの生産物が学校の備品となりました。

B. インディアン寄宿学校の立地

この白人有権者へのショーケースとしての居留地外のインディアン寄宿学校は、その立地にも表れています。

今も昔もアメリカの中心はNew England地方です。インディアン寄宿学校の「インディアンを殺して、人間として生き返らせる」という教育目標を考えた時、アメリカの白人文化の中心であるNew England地方から首都にかけての東海岸沿いが立地として望ましく、実際に最初期の実験的なインディアン寄宿学校はこの地域に設立されました。

しかし、インディアン寄宿学校の建築ラッシュは主に西部で起こりました。アメリカにはNIMBY(Not in My Back Yard)という言葉があります。要するにごみ焼却場や刑務所など社会的に必要だけれども迷惑な施設を自分の家の近くに作るなというもので、恐らく現代の日本でも荒れるであろう高校の立地はNIMBYに該当すると思われます。インディアン寄宿学校も、それに該当したため東海岸にインディアン寄宿学校を作るのは政治的に難しかったようです。

このような白人有権者へのショーケースという役割に加えて、経済的な要因も西部への建築を加速させました。当時、アメリカン・インディアン達は西へ西へと追いやられていたため、東海岸までアメリカン・インディアンの子供達を運ぶには輸送費が高くついてしまいます。さらに、現在アメリカの大学が雇用を提供し大学街が形成されているように、インディアン寄宿学校も様々な雇用を生み出したため、経済的に安定していた東部ではなく、これから経済を発展させていく段階にあった西部の開拓民に安定的な雇用を生み出すためにも西部が建設地として選ばれたようです。

インディアン寄宿学校は、アメリカン・インディアンを文明化させるという教育目的だけでなく、政治経済的な存在ともなっていたことが読み取れ、なかなか興味深いなと思います。

C. インディアン寄宿学校の教員達

教員給与は教育財政の大半を占めるので、教員政策は教育政策の中でも最も重要なファクターとなります。そして、インディアン寄宿学校の教員政策は、現代にも通じる所が多くありました。

近現代の米国の教員政策の特徴として、大きく二つの事が挙げられます。一つ目は、20世紀末辺りからこの傾向が消滅しましたが、それ以前は若くて学があるけれども女性差別により教育セクター以外ではまともな雇用機会が望めない女性が教職についていたという点です(この現象は、日本の教員配置システムが優れている理由ー過度に分権化すると避けられない問題点、という記事の中でも解説しているので、ぜひ参照してみて下さい)。もう一つの特徴は、現場の教員は女性が多いのに、校長・教育長と言ったマネージメントレベルは基本的に男性ばかりという点です。

この米国の教員政策の特徴はインディアン寄宿学校の教員政策にもそのまま見られた現象で、現場の教員の9割近くは女性、そしてその大半は若い独身女性であったのに対し、教育長の9割近くは男性でした。この未婚の若い女性を安く使うというのは、現代の途上国の低コスト型私立学校にも見られる現象で、なかなか興味深いものです。

このように、インディアン寄宿学校を巡る教育政策は、教育を通じた暴力の複雑さや、教育と経済について、なかなか興味深い視座を現在にも提供しています。インディアン寄宿学校で実際に何が行われていたかも紹介しようと思いましたが、既にだいぶ字数を使ってしまったので、また次回にしようと思います。

(アリゾナではオオタニサンも見に行ってきました)

画像1

画像3

画像4

画像2

(広告)私も理事を務めるネパールの教育支援をしているNGOサルタックでは、月額500円以上のご寄付でサルタックフレンズとして、Slackのオンラインコミュニティにご招待しますので、是非今回のブログの内容について質問がある、議論をしたい、ないしは国際教育協力や進路に関する相談をしてみたいという方は、サルタックフレンズにご加入ください。また、不定期に開催されるウェビナー後のQ&Aセッションにもご招待しますので、お楽しみに→サルタックフレンズになる



サルタック・シクシャは、ネパールの不利な環境にある子供達にエビデンスに基づいた良質な教育を届けるために活動していて、現在は学校閉鎖中の子供達の学びを止めないよう支援を行っています。100円のサポートで1冊の本を子供達に届ける事ができます。どうぞよろしくお願いします。